「マーロン・ブランド」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →プロフィール |
|||
58行目:
[[ネブラスカ州]][[オマハ (ネブラスカ州)|オマハ]]で化学飼料と駆虫剤の製造業を営んでいた父、マーロン・ブランド(シニア)と地方劇団オマハ・コミュニティ・プレイハウスの創設者の一人であった女優の母、ドロシー・ペネベイカー・ブランド(愛称はドディ)<ref name=iron>Bain 2004, pp. 65–66.</ref><ref>[http://www.filmreference.com/film/9/Marlon-Brando.html "Marlon Brando Biography (1924–)."] ''Filmreference.com.'' Retrieved: June 10, 2012.</ref>{{efn|母の知り合いに、俳優の[[ヘンリー・フォンダ]]がおり、彼はよくドディを連れてハリウッドにドライブに行ったとの事であった。またマーロンと[[ジェーン・フォンダ]]は友人関係にあった。}}の間に生まれる。両親は[[オランダ]]、[[アイルランド]]、[[ドイツ]]、[[イングランド]]の血を引く<ref name="songs">Brando and Lindsey 1994, pp. 32, 34, 43.</ref><ref>[http://books.google.com/books?id=QbIeAQAAMAAJ "Brando."] ''The New Yorker,'' Volume 81, Issues 43-46, p. 39.</ref><ref>Bly 1994, p. 11.</ref>。他に2人の姉がいる。愛称はバッド。
家庭は中流だったが、両親共に酒癖が非常に悪く、父親は激しい気性の持ち主だった{{efn|当時は[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]の時代だったので、両親は台所で闇[[ビール]]を造っていた。}}。このため少年だったブランドは次第に情緒不安定
16歳の頃に、反抗的な性格を変えようとした父に強制的に陸軍アカデミー(シャタック陸軍士官学校)に入学させられたが、教官に対しても常に反抗的で演習中に教官に口
根負けしたアカデミーの校長はブランドに、学業を修了して翌年に卒業するよう
=== デビュー ===
[[ファイル:Marlon Brando 1948.jpg|right|200px|thumb|[[1948年]]、[[ホワイトハウス]]にて]]
その後電気工、配管工を経て、俳優志望ではなかったが、姉2人が住んでいたニューヨークに出て俳優の仕事に就く。
[[1950年]]、『男たち』(日本未公開)で映画初出演。1951年、同じくカザンが演出した映画『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』で舞台と同じ亭主の役を演じて世界的な大スターへ駆け上がる。このとき彼が下着を普段着
ブランドの演技や服装は演劇においても映画においても、まったく型破りな存在であり、その「[[メソッド演技法]]」と言われる演技は賛否両論を巻き起こした。これまで芝居ではタブーとされていた猫背でぼそぼそとした喋り、急に不機嫌な表情をとったり、はにかんだ笑顔を見せたりと言った芝居を始めたのはブランドである。[[ポール・ニューマン]]、[[ジェームズ・ディーン]]、[[エルヴィス・プレスリー]]らの演技に多大な影響を与える。
76行目:
『[[乱暴者]]』([[1953年]])で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。[[イギリス]]などでは、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズで[[オートバイ]]にまたがる写真を見た世界中の若者が、そのスタイルを真似るようになる。そんな若者の中に[[エルヴィス・プレスリー]]や[[ビートルズ]]など、後に有名になるミュージシャンもいた。
1954年に、カザンの『[[波止場 (映画)|波止場]]』で港湾労働者を演じ、[[アカデミー賞]]主演男優賞を獲得した。アカデミー賞の受賞により名実共にトップスターになる。翌年、育ての親ともいえるカザンの大作『[[エデンの東 (映画)|エデンの東]]』の主役のオファーを蹴った。これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた[[赤狩り]]の追及に負けて同じような[[容共]]的な仲間を[[ジョセフ・マッカーシー]]率いる非米活動委員会に告発したことに対して憤慨していたからという。この映画で[[ジェームズ・ディーン]]がスター
=== 没落 ===
[[ファイル:Marlon_Brando_1963.jpg|right|200px|thumb|[[1963年]]、[[ワシントン大行進]]にて]]
ハリウッドに入った頃から、自分が気に入った脚本を厳選して、一級の作品にしか出ないことで知られていたが、父の投資の失敗の穴埋めのために現金が必要となったことから、[[1960年代]]に入ると内容
[[1967年]]に[[フランス]]の[[植民地]]である[[タヒチ]]諸島の[[テティアロア]][[環礁]]を所有してからは、役者稼業を「島の環境維持の資金稼ぎ」と割り切るようになる。同年、コメディ色が強い[[チャールズ・チャップリン]]の映画『[[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]]』に主演で契約。チャップリンが自宅へ招き、自ら実技指導をしてくれるが本人は居眠りをし、撮影中もチャップリンと口論となり映画も失敗に終わる。共演者の[[ソフィア・ローレン]]からも「彼はコメディに不向き」と評される。ちなみにブランドによるローレン評は「彼女は息が臭かった」<ref>{{cite news|newspaper = Daily Mail |date = 2014-06-25}}</ref>。
91行目:
[[1975年]]の『[[ミズーリ・ブレイク]]』からは少ない出番で莫大なギャラと収益の一部を得る事がブランドの出演条件となっていった。『[[地獄の黙示録]]』、『[[D.N.A./ドクター・モローの島|D.N.A]]』、『[[ブレイブ (映画)|ブレイブ]]』などの不気味な役柄など、性格俳優的な一面も見せ始めた。特に『[[地獄の黙示録]]』では暗殺されるカーツ大佐を演じたが、原作・脚本のキャラクターに全くそぐわない100キロを超える体重と外見、法外なギャラ要求と契約・演技態度などにより、コッポラ監督を極限まで悩まし、追い詰めた。だがハリウッドの重鎮的な存在感で圧倒し、老いてもなお、[[カリスマ]]的な言動とベールに包まれた私生活で常に話題となる存在でありつづけた。
自らも出演し[[1978年]]に公開された『[[スーパーマン (1978年の映画)|スーパーマン]]』の頃は、'''世界一ギャラの高い俳優'''としてギネス記録に残る伝説を生み出した。なお、この映画はブランド自身が出演を熱望したものである。ブランドの子供が、『スーパーマン』の愛読者であったため子供が喜ぶであろうと考えた故の行動であった。しかし、スケジュールの都合で撮影による拘束期間はわずか12日間で、ブランドは当時最高額の370万ドルのギャラと収益の11.75%を渡すことを条件に契約。
=== 晩年 ===
[[オーソン・ウェルズ]]
[[1990年代]]は[[ジョニー・デップ]]との親交もあり仕事をともにするようになった。晩年はギャラ問題などで「扱いにくい俳優」という評価を受けて、いわゆる大手製作会社による大作への出演はほとんどなくなり、
[[マイケル・ジャクソン]]とはブランドの家族ぐるみで付き合いがあり、互いに助言を求めたりするほどであったという。晩年には、マイケルのミュージックビデオ「[[ユー・ロック・マイ・ワールド]]」にも出演している。[[アマチュア無線]]家でもあったが、マイクに向かう時は[[フランス語]]風にした変名「マーティン・ブランドー」(Martin Brandeaux)を用い、しかもこの名で免許を受けていた為、交信した相手は誰もブランドであると気づかなかったという。コールサインはKE6PZH。
|