「浅野綱長」の版間の差分

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| 墓所 =
| 官位 = [[従四位|従四位下]]・[[安芸国|安芸守]]
| 主君 = [[徳川家綱]]→[[徳川綱吉|綱吉]]
| 藩 = [[安芸国]][[広島藩]]主
| 氏族 = [[浅野氏]]
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| 兄弟 = '''綱長'''、[[浅野長澄|長澄]]
| 妻 = 正室:'''貴姫'''([[馨香院]]、[[徳川光友]]の三女・[[徳川綱誠]]の養女)
| 子 = '''[[浅野吉長|吉長]]'''、[[浅野長賢 (広島新田藩主)|長賢]]、[[中川久慶]]<br/>梅([[小笠原忠基]]正室)<br/>娘([[九条師孝]]室)、娘([[一条兼香]]室)<br/>娘([[松平資訓|本庄資訓]]継室)、娘([[松平義方]]正室)<br/>娘([[水野忠幹 (松本藩主)|水野忠幹]]正室、のち[[森長生]]正室、のち[[河鰭輝季]]室)
| 特記事項 =
}}
'''浅野 綱長''' (あさの つななが)は、[[江戸時代]]前期の[[国主]][[外様大名]]。[[安芸国|安芸]][[広島藩]]第4代[[藩主]]。浅野家宗家5代。
 
'''浅野 綱長''' (あさの つななが)は、[[江戸時代]]前期の[[国主]][[外様大名]]。[[安芸国|安芸]][[広島藩]]第4代藩主。浅野家宗家5代。
 
== 生涯 ==
第3代広島藩主・[[浅野綱晟]]の[[長男]]として[[江戸]]で生まれる。[[延宝]]元年([[1673年]])1月2日に父・綱晟が死去したため、2月25日に家督を相続する。9月18日、将軍[[徳川家綱]]の前で[[元服]]し、家綱より[[偏諱]]を授かり'''綱長'''と改名した(父と同名を避けるため、[[諱]]の2文字目には浅野家の[[通字|通し字]]の「長」をあわせた)。この時、綱長は、まだ朝廷から正式な四位・安芸守の下賜を受けていない無位無官であったが、将軍の許可を受けて特別に先んじて安芸守を通称にすることが認められた。9月23日にはじめて領地広島へ入る。延宝2年([[1674年]])12月27日に正式に従四位下・侍従・安芸守に叙任する。
 
藩政は祖父[[浅野光晟|光晟]]が長く後見していたが、元禄6年([[1693年]])4月23日に光晟は死去した。[[元禄]]12年([[1699年]])の[[寛永寺]]本坊の造営に功績があった。