「六甲山」の版間の差分

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[[室町時代]]後期には[[応仁の乱]]にまつわる[[1469年]]([[文明 (日本)|文明]]元年)の兵庫焼き討ちなどで荒廃が進んだ。
 
[[鎌倉時代]]から[[安土桃山時代]]([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])には[[1333年]]([[元弘]]3年)[[赤松則村]]により築かれた摩耶山城では[[摩耶山天上寺]]を城郭として修築したほか、[[1334年]](建武年間)再度山上に多々部城(たたべじょう)などの[[山城]]が築かれた。[[1580年]]([[天正]]8年)には[[荒木村重]]が[[花隈城]]に篭って、山路城(諏訪城)の[[池田恒興]]と戦った[[花隈城#花隈城の戦い|花隈城の戦い]]などの争いがあり、これらの戦いと復興のたびに周辺の樹木の伐採などが大規模におこなわれた。さらに、[[1590年]]に[[天下統一]]を成し遂げた[[豊臣秀吉]]政権時は「武庫山の樹木の伐採勝手たるべし」との[[徳政令]]がでたこともあり、六甲山の「[[禿山]]」化がさらに加速した。以降、[[1615年]]([[慶長]]20年)の[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]で焼失した[[大坂城]]を再築した[[江戸幕府|徳川幕府]]による大坂城再築事業では、2代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠]]により[[石垣]]の調達を[[大名]]に命じて[[1620年]]([[元和 (日本)|元和]]6年)から[[1629年]]([[寛永]]6年)までの約10年の歳月をかけ石垣の採掘を行い大坂城へ運びこまれた。なお、各所の[[藩]]の名が彫られた刻印石が残る搬出途中で放棄された巨大な「残念石」が現在でも[[甲山森林公園]]や[[六麓荘町]]など西宮市から神戸市にかけた東西約6km、南北約2kmの山麓周辺に放置されており、これらは「徳川大坂城東六甲採石場」と呼ばれる。
 
[[江戸時代]]には山麓の人々が山中の谷奥に[[溜池]]を築き、牛の飼料の革や屋根に葺く萱、燃料の薪や土壁などのさまざまな生活物資を求めて奥地にまで及び荒廃はさらに進み、あわせて[[山火事]]も多発することとなって、明治初期には六甲山一帯は禿山で、所々に芝草が生育している程度まで人々の手で荒廃された山であったとされる。<ref>神戸市「六甲山森林整備戦略」六甲山の歴史と現状 P.5-6</ref>