「対馬府中藩」の版間の差分

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[[1609年]](慶長14年)には[[己酉約条]](慶長条約)が締結され、釜山には倭館が再建された。倭館は、長崎[[出島]]の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。
 
第2代藩主[[宗義成]]の代には、[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)に[[大坂の]]に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩[[家老]]・[[柳川調興]]とのあいだに[[柳川一件]]が起こっているが、[[1635年]]([[寛永]]12年)、第3代将軍・[[徳川家光]]によって裁可され、調興敗訴となった。[[1637年]](寛永14年)から翌年にかけては[[島原の乱]]に幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。
 
対馬府中藩は、[[参勤交代]]制度に基づき、3年に1度、[[江戸]]の[[征夷大将軍]]に出仕することとされ、江戸に[[藩邸]]を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な[[大名行列]]を仕立てて往来した。
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*慶長12年(1607年)- 朝鮮の回答兼刷還使([[朝鮮通信使|第一回通信使]])来島、江戸で秀忠に拝謁。
*慶長14年(1609年)- [[己酉約条]](慶長条約)が締結され朝鮮と国交回復。[[釜山広域市|釜山]]の[[倭館]]を再開(豆毛浦倭館)。
*[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)- 宗義智死去、[[宗義成]]が家督を相続。[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]に参陣。
*元和3年(1617年)- 朝鮮の回答兼刷還使(第二回通信使)来島。
*[[寛永]]元年(1624年)- 朝鮮の回答兼刷還使(第三回通信使)来島。