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** [[オーストリア]]・[[ウィーン]]で開かれた第39回[[国際原子力機関|IAEA]]総会政府代表演説の一番目に演説を行う。
** [[10月20日]]、[[第41回衆議院議員総選挙]]で[[愛知県第11区|愛知11区]]から出馬し、比例復活もならず落選。政界引退を表明。
* [[1997年]][[10月9日]] - 自民党は、次期参院選の[[愛知県選挙区]]に、県連会長の[[大木浩]]と浦野の二人を公認することを決定。[[トヨタ自動車]]の支援を取り付けたことが後押しとなった<ref name="chunichi19971012">『[[中日新聞]]』1997年10月12日付朝刊、38面、「『派閥超え党勢を拡大』 来夏参院選愛知選挙区 自民公認2人が決意」。</ref>。
* [[1998年]][[7月12日]] - [[第18回参議院議員通常選挙]]が行われる。大木と浦野の間で票が割れ、落選。再び政界引退を表明。
* [[2012年]][[4月29日]] - [[旭日重光章]]受章。
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* [[1994年]]の[[選挙]]制度改革によって衆議院議員選挙に[[小選挙区制]]が導入されると、これまで比較的楽な選挙を戦ってきた浦野を取り巻く状況は一変する。[[中選挙区制]]下の旧愛知4区の区割りが変更され、浦野の選挙区はトヨタ関連企業に勤務する有権者が多い[[愛知県第11区|愛知11区]]となり、[[新進党]]に移った伊藤英成との[[一騎討ち]]に臨むことになったのである。迎えた[[1996年]][[第41回衆議院議員総選挙]]では8万5千票と得票が伸びず、全トヨタ労連の[[組織票]]に支えられた伊藤に3万7千票の差をつけられて大敗。[[惜敗率]]69.5%となり、[[比例代表]]復活当選もならなかった。浦野は政界引退を表明したものの、年齢が若かったため自民党や後援会から慰留された。
* 豊田市幹部からも「豊田市には全トヨタ労連の議員と自民党の議員の二議席が必要」と国政復帰を求める声が上がった。
* [[1998年]]、[[第18回参議院議員通常選挙]]に出馬を要請され[[愛知県選挙区]]から自民党公認で立候補。しかしトヨタ民党苦戦動車流れの中支援を取り付けるも<ref name="chunichi19971012" />愛知県選挙区のもう一人の自民公認候補でを出した現職の[[大木浩]]と共倒れ落選。議席を獲得できず再び、政界引退を表明した。
* [[1999年]]、引退を表明した加藤正一豊田市長の後継者に名前が挙がり、[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]などから[[2000年]]2月の豊田市長選挙出馬を要請されるも辞退{{要出典|date=2019年7月}}。市長選には[[鈴木公平]]助役が立候補し当選した
* [[2003年]]、[[第43回衆議院議員総選挙]]に際し自民党では民主党の組織票が強固な愛知県11区の候補者擁立が難航していたが、伊藤英成が引退を表明したこともあり「知名度や実績がある」候補として浦野の再出馬を要請した。しかし浦野は既に何度も政界引退を表明していることや健康状態等を理由に固辞。自民党は候補者を擁立できず、不戦敗となった。