「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の版間の差分

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カラヤンはオーケストラに(長年鍛えられたベルリン・フィルの場合これが顕著であったが)指揮の打点時のずっと後に音を出すことを心がけさせ、非常に重量感のある音を求めていた。また、楽員の集中力や陶酔力を深めるためとして目をつぶって指揮したため、団員ははじめ大いに戸惑ったが、「じきに慣れるさ」の一言で押し通し、事実その通りになった。目を閉じる指揮法については、[[暗譜]]での指揮に関し[[ハンス・クナッパーツブッシュ|クナッパーツブッシュ]]から「(暗譜で指揮をしないのは)私は楽譜が読めるからだ」と皮肉を言われ、それに対し演奏に集中するための暗譜であることを誇示するために目を閉じるようになったという伝説がある。
 
カラヤンは当時の同世代の指揮者としては非常に広範なレパートリーを有していた(同時期に活躍した[[カール・ベーム]]、[[オイゲン・ヨッフム]]、[[ヨーゼフ・カイルベルト]]といったドイツ系指揮者はドイツ系の作曲家以外のレパートリーの比率は非常に低かった)。ベートーヴェンやブラームス、R.シュトラウス、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]などの[[ロマン派音楽|ドイツ・ロマン派]]の音楽や、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]、あるいは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ディヴェルティメント]]や[[セレナーデ]]などで特に高く評価された。また、[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]や[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]等のイタリア・オペラにはドイツオペラ以上のこだわりを見せ、北欧と英米以外の指揮者が演奏することの珍しい[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]や[[エドヴァルド・グリーグ|グリーグ]]など北欧の作品も手がけた。また、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[アルバン・ベルク|ベルク]]、[[アントン・ヴェーベルン|ヴェーベルン]]などの[[新ウィーン楽派]]の演奏でも高い評価を得た。舞踏音楽、序曲、行進曲といったアンコール・ピース的な小品にも熱心で、世界最高クラスの地位にありながら[[ヨハン・シュトラウス]]をこれだけ繰り返し録音し続けた指揮者というのは、少なくとも彼の世代までは[[クレメンス・クラウス]]程度しか存在しなかった<!--{{独自研究範囲|date=~~~~~|(逆に後輩世代はマゼール、C・クライバー、アーノンクール、W=メストなど少なくなく、ある種の道筋をつけたともいえる)}}-->。[[リヒャルト・シュトラウス|R.シュトラウス]]とは個人的な知己でアドバイスをもらっており、彼の作品の演奏も高い評価を得ている。また『[[メタモルフォーゼン]]』(23人の弦楽器奏者のための作品)について、シュトラウス本人に後半部で各パートを3人に増やし69人で演奏することを提案し、同意を得ていたが、ベルリン・フィルの室内楽的緻密さによりその演奏方法の実現を可能にした。
 
[[1970年]]にワーグナー『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』の世界初のステレオによるスタジオ録音を、東西ドイツ統一前の[[ドレスデン]]で行った(この録音企画の当初の指揮者はサー・[[ジョン・バルビローリ]]だったが、1968年の「[[プラハの春]]」事件に際して、亡命チェコ人である[[ラファエル・クーベリック]]が音楽家たちにあてた「東側諸国での演奏自粛」という嘆願書にバルビローリが賛同して、この録音を断った。しかし、カラヤンはその代役を快く引き受けた<ref>山崎浩太郎「レコード芸術」2000年10月号</ref>)。また映像作品にも取り組み、積極的に新しい分野を開拓していった。ヨーロッパのオペラハウスでの原語上演は、カラヤンに始まるといわれている。それ以前は[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェントガーデン]]やウィーンですら、オペラの現地の言葉での翻訳上演は半ば常識であった。カラヤンの芸術監督時代のウィーン国立歌劇場で始められた原語上演への改革が、その後の今日に至る原語上演の広まりのさきがけとなった。その他の録音・映像として、[[1982年]]における[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]、[[1988年]]における[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]、ザルツブルクにおけるオペラ映像などの実績が見られる。