「コンスタンティン・チェルネンコ」の版間の差分

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[[1982年]]1月の[[ミハイル・スースロフ]]の死後は、中央委員会第二書記の職務を代行し、実質的なソ連ナンバー2となった。同年11月のブレジネフの死に際しては、チェルネンコが後継書記長に選出されるとの観測があったが、党内で十分な支持を得ることができず、[[ユーリ・アンドロポフ]]が書記長に就任した。故に失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして長年の総務部長勤めで築いた[[党官僚]]人脈を背景に勢力を維持した。
 
== 最高指導者として ==
=== 書記長就任 ===
[[1984年]]2月、チェルネンコは、アンドロポフの死に伴い、[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党中央委員会書記長]]に就任し、同年4月からは、[[国家元首]]である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]を兼務することになった。しかし就任当初から健康状態がすぐれず、アンドロポフの葬儀に参列した[[イギリス]]の[[社会民主党 (イギリス)|社民党]]党首で[[医師]]でもあった[[デイヴィッド・オーウェン]]は、「チェルネンコ氏は[[肺気腫]]を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オーウェンの「診断」の正しさが証明される格好になった。また、ソ連国歌が演奏され、アンドロポフが埋葬される際にも、他の政治局員が居並んで敬礼する中、チェルネンコ1人だけが満足に敬礼することもできず、途中で手を下ろしてしまう場面は、彼の体力の衰えを国内外に印象付けた。