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== 沿革 ==
[[File:IJA General Staff HQ.jpg|right|300px|thumb|[[桜田門]]から望む陸地測量部庁舎は明治14年落成当初は画面左の建物が[[ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペレッティ|カッペレッティ]]設計により[[西南戦争]]後に建設に着手明治14年に落成し、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]として供用されていたが、明治27年の[[明治東京地震]]により若干の被害を蒙った。これを受け、参謀本部の機能は新たに建築された北側の新館(画面右)へ明治31年に移転し、この写真の撮影時期(明治末期)には、当時参謀本部の伴属諸課として三階の一部を間借りしていた陸地測量部がほぼ全面的に占用するに至った]]<br />
<b>画面左</b>:陸地測量部はこの建物3階の一部に参謀本部の伴属諸課として間借りしていた{{efn|建物自体は[[西南戦争]]後に着工、明治14年に落成。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]として供用中の明治27年、[[明治東京地震]]により若干の被害を受け、修理している。参謀本部は明治31年に完成した新館に転出した。}}。明治31年以降は陸地測量部がほぼ全面的に占用するに至った。<br />
[[Image:État-major japon.jpg|right|300px|thumb|陸地測量部正面写真]]
<b>画面右</b>:新館は参謀本部の移転先。]]
[[Image:État-major japon.jpg|right|300px|thumb|陸地測量部正面。[[ファサード]]のデザインから、明治27年[[明治東京地震]]による修築以前と推定。]]
 
=== 明治から戦前、戦中まで ===
[[File:Japan Vertical Datum 201001.jpg|right|300px|thumb|[[日本水準原点標庫]]。陸地測量部時代に建設され、国土地理院に引きがれた後も承。今なお公的機能を有する建築物。]]
[[1869年]]6月(明治2年5月)設立の民部官庶務司[[戸籍]][[地図]]掛として設立 を行政組織の[http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000000142&ID=M0000000000000826876&TYPE=&NO=] されたのが行政組織としての起源であ]とするが、近代政府としての測量・地図に関する制度的な嚆矢としては、行政官が府県・諸侯に対して発した1868年([[明治元年]])12月24日の沙汰<ref>明治元年12月24日に行政官から付の府県・諸侯に対し発せされた宛ての行政官沙汰は管轄地図を凡例等について詳細に指示した上で管轄地図を調製させる旨の沙汰[であった。{{NDLDCcite document|和書|date= 1868-12-24|title= 行政官沙汰|NDLDC=787948/261}}]</ref>にまで遡ることができる。戸籍地図掛は翌[[1870年]](明治3年)には[[民部省]]地理司へと拡充1871年(明治4年)民部省廃止され、に伴い測量地図作成業務は新設された[[工部省]]測量司に、同じく戸籍業務は[[大蔵省]]租税寮へ移管。[[内務省 (日本)|内務省]]設置された[[1873年]](明治6年)の翌年1月には、[[太政官達]]<ref>{{cite document|和書|date= 1874年(明治7年)1月|title=太政官達 |quote= 大蔵省中戸籍、[[土木]]、[[駅逓]]ノ三寮及租税寮中[[地理]]、勧農ノ事務ヲ内務省ニ交割セシム」[{{NDLDC|NDLDC= 787954/254}}]</ref>により、同省に地理寮が発足した。その後、同年8月せられた布の太政官達<ref>{{cite document|和書|title= 太政官達 |quote= 内務省中測量司ヲ廃シ地理寮ヘ量地課ヲ置キ内史所管[[地誌]]課ヲ地理寮ニ併ス」[{{NDLDC |NDLDC = 787954/280}}]</ref>により、内務省発足に伴い[[工部省]]から引き継いだ測量司(元工部省)<ref>明治4年8月14日設置。元[[工部省]]管轄、内務省発足に伴い引き継ぐ。</ref>及び[[太政官]][[正院]]内史地誌課<ref>起源は明治4年6月8日設置された太政官政表課を源とする)。</ref>の業務等を移管統合しつつ、1877年(明治10年)に太政官達第3号<ref>{{cite document|和書|title= 各省中諸寮ヲ廃シ局ヲ設ケシム」[{{NDLDC|NDLDC=787957/111|piblisher= 太政官|number=3}}]</ref>により内務省地理局と改称され、全国大[[三角測量]]と[[地籍調査]]の実施を主要業務とした。
 
一方で、1871年(明治4年)7月、[[兵部省]]に「機務密謀ニ参畫シ地圖政誌ヲ編輯シ並ニ[[スパイ|間諜]]通報等ノ事ヲ掌ル」ことを目的に陸軍参謀局が設けられ、「平時ニ在リ是ヲ諸地方ニ分遣シ地理ヲ測量セシメ地圖ヲ製スルノ用ニ供スル事」として間諜隊が置かれた。翌年の2月に兵部省が[[陸軍省|陸軍]][[海軍省|海軍]]両省に分割された際には[[陸軍省]]参謀局として存置されたが、1873年(明治6年)4月、「陸軍[[文庫]]・測量地圖・繪圖[[彫刻]]・兵史並[[兵家]]政誌蒐輯」を掌る陸軍省第六局(翌年再び参謀局と改称)となった。さらに、1878年(明治11年)12月、陸軍省参謀局廃止され[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]設置されたのを機に、同部の地図課・測量課として拡充・改称された[{{NDLDC|787951/393}}][{{NDLDC|787951/404}}][{{NDLDC|787953/594}}][{{NDLDC|787954/449}}][{{NDLDC|787964/290}}][{{NDLDC|787964/291}}]
 
このように、一時期日本における測地測量は内務省地理局と参謀本部測量課により二元的に実施されてきたが、1884年(明治17年)6月26日、一連の太政官達<ref>太政官達の1件目、1884年(明治17年)6月26日実施の地理行政の整理のため、内務省地理局の大三角測量業務を終了。「内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ引渡」</ref><ref>太政官達の2件目、1884年(明治17年)6月26日実施の地理行政の整理に備えて参謀本部に大三角測量業務を移管。「内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ請取」</ref>によって地理行政の業務が整理され、内務省地理局から大三角測量業務を参謀本部に移管、以後、同局の主な業務は地誌編纂中心に縮小された。
[{{NDLDC|787951/393}}][{{NDLDC|787951/404}}][{{NDLDC|787953/594}}][{{NDLDC|787954/449}}][{{NDLDC|787964/290}}][{{NDLDC|787964/291}}]
これに伴い参謀本部の地図課・測量課は「測量局」へと拡充(1884年9月)、さらに参謀本部の一局から分離され[[陸地測量部]]として本部長直属の独立官庁となるのは1888年(明治21年)5月<ref>陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)制定</ref>である。全国規模の陸地部における測量を統括するという原則は第二次世界大戦[[終戦]]時まで継続され、1945年(昭和20年)には[[東京大空襲]]を受けて各部署毎に長野県[[松本盆地]]に分散疎開した<ref>{{cite journal|和書|author= 金窪敏知|doi=10.11212/jjca.52.1_13 |title= 陸地測量部から地理調査所へ|journal= 地図 |date= 2014年 |volume= 52| number= 1 |pages= 1_13-1_18}}</ref>。
 
このように、一時期日本における測地測量は内務省地理局と参謀本部測量課により二元的に実施されてきたが、1884年(明治17年)6月26日、一連の太政官達「内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ引渡」及び「内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ請取」, によって大三角測量業務は参謀本部の管轄に移管され、内務省地理局は以後地誌編纂を主な業務とすることとなった。これに伴い、同年9月に参謀本部の地図課・測量課が測量局へと拡充された後さらに、1888年(明治21年)5月、陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の制定をもって、参謀本部の一局であった測量局は分離して本部長直属の独立官庁である[[陸地測量部]]となり、以後1945年(昭和20年)の[[終戦]]時まで全国規模の陸地部における測量を統括するという原則が継続された。同年の[[東京大空襲]]を受けて長野県[[松本盆地]]に各部署毎に分散疎開した<ref>金窪敏知、「[https://doi.org/10.11212/jjca.52.1_13 陸地測量部から地理調査所へ]」 地図 2014年 52巻 1号 p. 1_13-1_18, {{doi|10.11212/jjca.52.1_13}}</ref>。
 
==== 陸地測量部発足以前 ====
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* 1872年(明治5年)5月 - 工部省測量司が皇居測量を開始。
* 1874年(明治7年)1月 - 工部省測量司が[[内務省 (日本)|内務省]]に移管され、すぐに地理寮量地局に改組される。
* 1874年(明治7年)12月 - 内務省地理寮が[[御殿山]][[金星日面通過]]観測を行う。
* 1875年(明治8年)7月 - 内務省庁舎が焼失し、ほとんどの地図原図、測量野帳、測量器機を失う。
* 1875年(明治8年) - 内務省地理寮量地局が[[関東地方]]全域の大三角測量事業(一等三角測量)を開始。
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* 1878年(明治11年) - 陸軍省参謀局が廃止され[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]が設置。
* 1879年(明治12年) - 参謀本部が全国測量計画を策定。
* 1883年(明治16年) - 参謀本部が一等三角測量、[[一等水準測量]]を開始。
* 1884年(明治17年)6月 - [[内務省 (日本)|内務省]]地理局所管の陸上測量業務が[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]へ移管。
* 1884年(明治17年)9月 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]の地図課・測量課を合せて測量局設置。新たに三角測量課、地形測量課を設置。
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* 1941年(昭和16年)4月 - 陸地測量部条例が改正。三角科が第一科、地形科が第二科、製図科が第三科、修技所が教育部となる。
* 1944年(昭和19年)4月 - [[杉並区]]の[[明治大学]]予科校舎に疎開。
* 1945年(昭和20年) - 長野県松本市郊外に[[疎開]]。([[波田村]]、[[梓村]]、[[塩尻町]]、[[明盛村]]温明の各[[国民学校]])に[[疎開]]。
* 1945年(昭和20年)5月 - [[陸地測量部]][[三宅坂]]庁舎が[[空襲]]により焼失。
* 1945年(昭和20年)8月31日 - 陸地測量部条例が廃止され、[[陸地測量部]]が消滅。
 
=== 終戦後 ===
終戦直後、陸軍参謀本部第二部参謀・[[渡邊正]]少佐の「戦後の復興にも地図作成機関が必要」として文民組織へのいち早い切り替えの努力により<ref>{{Waybackcite web|url=http://www.gsi.go.jp/WNEW/koohou/450-5.htm|title=渡邊正氏に国土地理院長から感謝状 |author= 地理情報部 |website= 国土地理院広報 |date= 2005年12月 |accessdate=2014-08-06 <!-- 20140806090859 -->}}</ref><ref>{{cite book|和書|title= 地図の読み方事典 | publisher= 東京堂出版 P.|pages= 164-P.165}}</ref>、「内務省官制中改正ノ件」(昭和20年勅令第502号)の[[施行]]をもって、陸地測量部令<ref>昭和16年勅令第505号(1941年)。明治21年5月勅令第25号(1889年)の全部改正。</ref>の廃止とともに陸地測量部は消滅、終戦2週間後の1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省'''地理調査所'''が新たに発足。貴重な資料・機器は、多くが戦後の混乱による散逸から免れた。翌年には、疎開先の長野県から千葉県[[千葉市]][[稲毛区|稲毛]](旧[[千葉陸軍戦車学校]]跡地)に移る(その後、昭和33年には東京・目黒に移転は[[#建設省 地理調査所|後述]])。1948年(昭和23年)1月1日に[[建設院]]地理調査所<ref>1947年(昭和22年)12月26日法律第237号「建設院設置法」</ref>、続けて同年7月10日に[[建設省]]地理調査所となり<ref>1948年(昭和23年)7月8日法律第113号「建設省設置法」</ref>となり、1960年(昭和35年)7月1日に現在の'''国土地理院'''と改称された<ref>1960年(昭和35年)7月1日法律第115号「建設省設置法の一部を改正する法律」</ref>。
その後、1984年(昭和59年)7月1日、[[国家行政組織法]]の改正により建設省の特別の機関に位置づけられ、更に[[中央省庁再編]]に伴い国土交通省の特別の機関となり現在に至っている。
 
本院は[[筑波研究学園都市]]内の茨城県[[つくば市]][[北郷 (つくば市)|北郷]]1番にある。1979年(昭和54年)に東京・[[目黒 (目黒区)|目黒]]から現在地(当時は[[筑波郡]][[谷田部町]])に移転した。1996年(平成8年)6月1日に、地図や測量について親しめるような施設「[[地図と測量の科学館]]」を開館させた<ref>{{sfn|長岡(1997):42ページ</ref><ref>|1997|p=42}}{{sfn|日本測量協会(1996):34 |1996|p=34- 35ページ</ref>}}
 
==== 内務省 地理調査所 ====
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*1951年(昭和26年)7月 - [[地籍調査]]の実施を決めた12道県に地理調査所の支所を設置。四等三角測量・二等多角測量を実施。
*1952年(昭和27年) - 国内[[重力]]測量を開始。
*1953年(昭和28年) - 基本測量長期計画を告示(昭和28~3728&ndash;37年度まで)。2万5千分1地形図による全国の平地部全域の整備、空中写真測量の実施などを明確化。以降、約10年ごとに改定。
*1953年(昭和28年) - 新たな20万分1[[地勢図]]の整備を開始。
*1953年(昭和28年) - [[月]]による[[星]]の[[掩蔽]](えんぺい)観測を開始。
*1954年(昭和29年)4月 - 地理調査所の支所を7つの地域ブロックに集約。地方ブロックに係る測量全般を実施する機関となる。
*1954年(昭和29年)5月 - 主要自然地域名称図を印刷。20万分1またはそれより小縮尺の地図に注記する[[山地]]・[[平野]]などの自然地名を統一化。
*1955年(昭和30年) - [[湖沼]]調査を開始。1万分1[[湖沼]]図の整備を開始。
*1955年(昭和30年) - 千葉県[[君津町]](現 [[君津市]])[[鹿野山]]に、[[地磁気]]絶対観測室を設置。
*1956年(昭和31年) - [[南極地域観測隊|南極観測]]事業に参加。地球物理観測と地図作成を主務として、測地・地形観測要員が参加。
*1956年(昭和31年)6月 - 測量第 1 部・測量第 2 部を廃し、測地部・測図部に改編。写真測量による地図作成が実用・本格化。
*1957年(昭和32年) - 技術員教育所が建設研修所測量研修部となる。
*1958年(昭和33年)7月 - 千葉県[[千葉市]]から東京都目黒区の駒沢練兵場跡地へ庁舎を移転(東山庁舎)。東京支所が三宅坂に移転して関東支所に改称。
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==== 建設省 国土地理院 ====
 
*1960年(昭和35年)7月1日 - 地理調査所から国土地理院に改称(英称は Geographical Survey Institute のまま変更なし)。支所もまた地方測量部に改称。
*1960年(昭和35年) - 国土基本図事業の開始。全国的な空中写真の撮影を再開。大縮尺地図整備を進める。
*1962年(昭和37年) - [[鹿野山]]測地観測所を設置。職員が常駐し本格的な[[天文]]・[[地磁気]]・[[重力]]などの連続観測を行う。
*1964年(昭和39年) - 第二次基本測量長期計画を告示(昭和39~4939&ndash;49年度まで)。2万5千分1地形図の全国整備などを明確化。
*1964年(昭和39年) - [[人工衛星]]観測を開始。
*1964年(昭和39年) - 写真図の作成を開始。
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*2007年(平成19年) - [[測量法]]改正(測量成果の活用促進)。
*2007年(平成19年)5月30日 - [[地理空間情報活用推進基本法]]が公布される。
*2010年(平成22年)4月1日 - 国土地理院の英称を Geospatial Information Authority of Japan に変更(略称は GSI のまま変更なし)。
*2011年(平成23年) - [[東北地方太平洋沖地震]]の影響で[[日本経緯度原点]]及び[[日本水準原点]]の原点数値を改正。
*2012年(平成24年) - [[明治]]期の[[低湿地]]データの整備を開始。地震による[[液状化現象|液状化]]発生に関与する、過去の[[土地利用]]を再現。