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{{main|モンゴルの高麗侵攻}}
崔氏武臣政権下、北方では[[チンギス・ハン]]率いる[[モンゴル帝国]](蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。やがて[[1224年]]に金の年号を止め、金から独立した。高宗5年([[1218年]])にモンゴルに離叛した契丹の一派が高麗領内に侵入した時、チンギスはこれを追討し高麗側も兵力を出してこの討伐行を助勢した。これにより高麗はモンゴル側と接触してその朝貢国となったが、[[1224年]]に派遣されたモンゴル使臣が高麗領内で殺害される事件が起こり、国交は断絶した。[[1231年]]から、先年の使者の殺害を詰問し降伏・臣従を促す国書がモンゴル側から来牒し<ref>『元史』、『高麗史』巻23・世家第23 高宗18年12月壬子(1231年12月25日)および甲戌(1232年1月16日)条にこの時にモンゴルの使者がもたらした牒状の写しが載せられている。</ref>、モンゴル軍の侵入が始まる。崔氏は国王を連れて[[1232年]]に都を[[開京]]から[[江華島]]に移して、3年間も徹底抗戦を行ったため、国土と国民はモンゴル軍に蹂躙され、荒廃した。[[1239年]]にモンゴルは高麗に入朝を命じたが、高麗側はこれに応じなかった。[[1247年]]に再びモンゴル軍が侵入した。この年からモンゴルは継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、[[1258年]]に北部の和州以北を占領され[[双城総管府]]が置かれた。結局、翌[[1259年]]に崔氏政権は打倒され、高麗はモンゴル帝国に降伏、太子(王子)を人質としてモンゴル宮廷に差し出し、高麗王族がモンゴルの大カアンの侍衛組織である[[ケシク]]の要員に加わるようになった。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わり、モンゴルの[[行中書省]]の[[征東等処行中書省]]に組み込まれる。これに関して
=== モンゴルの統治・元寇への参加・高麗王のモンゴル貴族化 ===
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*[[池内宏]]『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版
*[[山内弘一]]「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 [[武田幸男]]編集『朝鮮史』山川出版社
*[[宮家邦彦]]『哀しき半島国家韓国の結末』、[[PHP研究所]]、160頁「李氏朝鮮は[[1392年]]、元が衰退したのちに親『[[明]]』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、[[1402年]]に明に[[朝貢]]・[[冊封]]した。」
*[[岸本美緒]]/[[宮嶋博史]]「明清と李朝の時代」『世界の歴史 12』、[[中央公論社]]、17頁「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」
*[[岡田英弘]][[宮脇淳子]]研究室『[http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/liseikei.html 論証:朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である]』</ref>)は、[[1388年]]に当時の親元派政権が明に対抗するため[[遼東半島]]に向けるはずであった遠征軍を引き返させてクーデター([[威化島回軍]])を起こして政権を掌握。[[1389年]]に[[恭譲王]]を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、[[1392年]]に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、[[李氏朝鮮|朝鮮王朝(李氏朝鮮)]]を興す。ここに高麗は建国474年で滅びた。
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