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| 死没 = [[文久]]2年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]([[1862年]][[3月2日]])
| 改名 = 初之助(幼名)→忠恵
| 別名 = 内膳([[仮名 (通称)|通称]]
| 戒名 = 実相院殿転心如幽大居士
| 墓所 = [[東京都]][[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]]の[[弘福寺]]
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== 生涯 ==
天明4年(1784年)8月5日、第2代藩主[[松平忠福]]の嫡子[[松平忠房 (小幡藩嫡子)|忠房]]の長男として生まれる。父の早世後は叔父の[[松平忠彊|忠彊]]が嫡子となったが、忠彊も[[寛政]]10年([[1798年]])に早世したため、3月5日に祖父[[松平忠福|忠福]]の嫡子となった。寛政11年([[1799年]])7月16日、祖父の死去により家督を継いだ。同年12月18日、従五位下宮内少輔に叙任する。文化5年(1808年)7月12日、[[奏者番]]に就任する。
 
藩財政改革のため、緊縮財政政策を用いるが効果はなく、[[弘化]]元年([[1844年]])には収入に対して借金が10倍近くの7万4032両にまでなっていたと言われている。さらに農村の荒廃なども進んだ。[[天保]]9年([[1838年]])8月20日、[[若年寄]]に就任する。[[嘉永]]元年([[1848年]])10月18日、[[城主大名|城主格]]となる。[[安政]]3年([[1856年]])6月27日、老齢を理由に五男の[[松平忠恕 (小幡藩主)|忠恕]]に家督を譲って隠居した。文久2年(1862年)2月2日に死去した。享年79。
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{{小幡藩主|奥平松平|3代|1799年 - 1856年}}
 
{{DEFAULTSORT:まつたいら たたしけ}}
[[Category:奥平松平氏|たたしけ]]
[[Category:小幡藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:幕末の大名]]
[[Category:奥平小幡松平|たたしけ]]
[[Category:1784年生]]
[[Category:1862年没]]