「如意ヶ嶽」の版間の差分

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[[File:Daimonji 1kaku.jpg|thumb|220px|第1画を金尾から望む。銀閣寺からの登山道を上りきった人物が見える。]]
[[File:Daimonji lift.jpg|thumb|220px|薪を運搬するリフト]]
毎年8月16日<ref name = shinsen>『新撰京都名所図会』</ref>(かつては[[旧暦]]の7月16日であった)、19時半頃には大の字の中心(金尾、カナワ、カナオ、カネオ)にある弘法大師堂<ref name = yamaaruki />で行事・般若心経の読経が開始され<ref name = hogozaidan2000 />、20時から「大」の字の送り火が行われる。運営は大文字山麓、浄土寺界隈の民間人らの組織する保存会が行っている(後述)<ref group = *>この火床付近の海抜は『京都一周トレイル 東山』によれば330メートル、『大文字 五山の送り火』p.65によれば333メートル。</ref>。ちなみに火床周辺は昭和13年/26年の地形図では「大文字霊場」と記されている。また『京都故事物語』によれば、辺りの面積は70007,000[[坪]]程度であるという。この送り火は本来の[[盂蘭盆]]の「送り火」としての意味だけではなく、都の安寧や悪霊退散を願うものでもあったともいい<ref name = shinsen />、家内安全や無病息災なども願う伝統的・包括的な宗教行事である<ref name = setsumei /><ref name = daimono68>『京の大文字ものがたり』pp.68-</ref>。
 
「大」の字は第一画の横棒を一文字といい80メートル、第二画の左払いを北流れといい、一文字より上に突き出した字頭(じがしら)部を含め160メートル、第三画の右払いを南流れと言い120メートル。火床の数は大の字中心より上が9、左が8、右が10、左払いが20、右払いが27。これに大の字中心の「金尾」<ref>『京の大文字ものがたり』p.51</ref>を加え合計で75。
 
他に妙法、左大文字、船形、鳥居形でも行われ、これらを併せて「[[五山送り火]]」とし、京都の夏の風物詩の一つである。現在は20時ちょうどに、五山の先頭を切ってこの大文字が全火床一斉に点火され、25分から30分程度燃焼する<ref name = setsumei /><ref group = *>1957年 田中緑紅『京の送火 大文字』p.10によれば、当時は大文字が最後に点火されていた。p.22によれば点火時刻は20時13分。1976年の駒敏郎『大文字 五山の送り火』p.66でも、20年くらい前(1956年くらい)までは大文字は五山の中でも「横綱格」であるので、他の四山が点火されるのを見定めてから点火したとのことである。ちなみに「左大文字」は一斉ではなく筆順に点火される。</ref>。なお、火床の所在地は京都市左京区浄土寺七廻り町1<ref name = kankou1986 /><ref name = kankou1986 /><ref name = hogozaidan2000 /><ref group = *>大の字の各字画の長さについては文献により若干の違いがみられる。本項では昭和40年代に京都市当局が実測し、大文字保存会が採用している数値を示している(『大文字送り火 説明資料』など)。</ref>。
 
なお日本が[[太陽暦]]を採用してからは点火は20時に行われているが、それ以前、いわゆる[[旧暦]]の時代においては、約1時間前、太陽暦採用後で言うところの19時頃に点火されていたと言う説が2014年、在野の研究家である青木博彦より提唱された。これは[[本居宣長]] 1756年『在京日記』に、送り火当日(当時の暦で7月16日)、ある人物の家を訪れたとあるが、この時に月が出るのを見たと記されていたことけとなっている。京都市の標高や国立天文台の公開数値から計算すると当日の月の出は20時6分頃と推定され、日記の記述から本居の足取りを推測した結果、本居が三条大橋で大文字を見たのは19時16分頃としている。また送り火の燃焼時間を20分と推定し、19時16分頃にはまばらに消え残っていたと記されていることから、点火時刻はその20分前の18時56分頃としている。なお当日の日の入りは18時46分であり、よって点火はその直後に行われたことになる。また日暮れは19時22分であるから、その頃には既に消火していた。このため送り火は現代の様な「夜間」ではなく、夕方、薄暮に行われていたことになる。青木は他にも1603年『慶長日件録』や1864年『花洛名勝図会』も分析し、[[明治時代]]時代に至ってもしばらくの間は19時頃に点火されていたと結論している。また、当時は現在のように携帯できる照明器具が発達していなかったことも影響し、薄暮に行われたのではないかともしている。なお1780年『[[都名所図会]]』でも、送り火の紹介には「毎年七月十六日の'''夕暮'''」と記されている。<ref>京都新聞 2014年8月16日 朝刊 p.1</ref>
 
大文字山で燃やされるのは薪(アカマツ)が600束、松葉が100束、麦わらが100束。要するアカマツは25本、約4トン<ref>『京都・火の祭事記』p.15</ref>。前日の8月15日正午頃より、慈照寺の門前で[[護摩木]]を受け付けている<ref>護摩木に名前と病名を書き、それを燃やすことにより病が消えると言われている。燃やした後の燃え木も魔除けとなる。</ref><ref name = kankou2005 /><ref group = *>『京都故事物語』では、[[茄子]]に穴を開けて大文字を見ると目を患わない、大文字を盃に映してから飲み干すと[[中風]]を患わない、などのまじないも紹介されている。</ref>。薪については主に大文字保存会が管理する、大の字周辺およびそれより上部の約12ヘクタールに及ぶ共有林のものが使用されるが<ref group = *>古くは浄土寺村の共有林。現在は保存会が維持管理。</ref><ref name = anzai>安西幸夫 1995 『大文字送り火』</ref>、近年[[マツ材線虫病|マツクイムシ]]による被害や、時代の流れによるアカマツ林の手入れ不足・土壌の肥沃化(アカマツは痩せた土壌を好む)による影響などもありアカマツが減少。植林を行ったり、隣接する銀閣寺山国有林から融通されるなどして対応している<ref>「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生の取組」 - アカマツの融通、共有林・国有林などについて</ref><ref>「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について」- アカマツの融通、共有林・国有林などについて</ref><ref name = morihiro988 /><ref>『京都・火の祭事記』p.7</ref>。
 
各火床については古来は杭を立てそれに松明を結わえたものとなっていたが、[[寛文]]・[[延宝]]年間(1661- 1681年頃)には、薪を積み上げる形に移行した。近年までは単に土を掘ったところに薪を井桁に積み上げたものであったが、1969年以降、火床については細長い[[大谷石]]を二つ並べたもの(上から見ると「=」の形状)に薪を井桁に積み上げるかたちとなっている。薪の間には松葉を詰め、周囲には麦わらを立てかけ、点火を行っている<ref name = kankou1986 /><ref name = hogozaidan2000 /><ref>『大文字山を食べる』</ref><ref>『京の大文字ものがたり』p.69-71</ref>。
 
各戸の受け持ちは原則として1戸が2床で、負担を均等化するためか、古くから交代制になっている<ref group = *>『京の大文字ものがたり』によれば、一巡すれば一年の休み。</ref><ref name = daimono68 /><ref name = anzai />。「大」の中心である「金尾」は4戸<ref group = *>『京の大文字ものがたり』p.71によれば、4,5戸。</ref>、「大」の最上部、字頭のものは2床一組でこれを2戸で受け持つやはり大きなもの<ref group = *>『大文字送り火 説明資料』によれば、1973年頃は金尾は5戸、字頭は1戸で担当していたが、2003年頃にはそれぞれ4戸、2戸となっている。</ref><ref name = setsumei /><ref>『京都・火の祭事記』</ref><ref name = hogozaidan2000 />。また、担当した火床の燃え方が悪いとその家に不幸が続くとの言い伝えもあるという<ref name = kojimono>『京都故事物語』</ref>。
 
薪は毎年2月に切り出され<ref group = *>『京都・火の祭事記』によれば樹齢30-から40年。『大文字送り火 説明資料』によれば90-から100年(ただしこれは1973年の情報)、『フォレストニュース「森のひろば」』vol.988によれば燃焼時間の関係から樹齢80年程度。</ref>、4月から翌5月まで火床近くの倉庫で乾燥させ、麓まで下ろし各家庭で保管。8月16日に再度火床まで運搬する運びとなる<ref name = hinosai26>『京都・火の祭事記』p.26</ref><ref name = setsumei />。
 
年一回の送り火のために多大の準備を要し、切り出しのほかにも各所の下草や雑木の刈り取り、近年比較的入手困難な麦わらの確保<ref name = anzai />、火床の維持管理など多岐にわたるものであり、また地元民も現在は農民というわけではなく作業への慣れの問題もあり、負担は大きい。2004年『京都・火の祭事記』によれば中心メンバーはほぼ毎週の[[土曜日|土曜]][[日曜日|日曜]]、その他は年間平均約10日をボランティアに充てている<ref name = anzai /><ref name = hogozaidan2000 /><ref name = daimono68 /><ref name = hinosai26 />。
 
送り火当日の作業人員は総計約300名<ref name = setsumei />。雨への備えのため、火床への薪上げは当日まで行われない。かつて作業者は1週間前から沐浴・酒肉断ちなどを行い<ref>『京の送火 大文字』p.21。1957年の文献であるが、この頃は作業人員は80人程度。</ref>、当日には1束10キログラムの薪束を一人2束担いで1.5キロメートルに及ぶ山道を4回登ったというが<ref>『大文字 五山の送り火』p.66</ref>、1972年にはこれに代わり約400メートルのリフトが設置され、途中からはそれを用いている<ref group = *>1972年の京都新聞によれば、このリフトの始点までは小型トラックで運搬をしていたとのことであり、積み込み時の写真も掲載されている。</ref><ref>『京都新聞』1972年8月16日 夕刊</ref>。
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また『新撰京都名所図会』では、如意ヶ嶽(大文字山)が送り火の山として選ばれた理由を、この山裾一帯が埋葬地であったが故に、それにふさわしかったのではないかとしており<ref group = *>「如意寺跡発見への挑み 1」でも、火床から大文字山山頂にかけて[[経塚]]が点在しており(如意ヶ嶽経塚群)、古来より神聖な山であったようだとしている。<!-- 他に「50とれんち」でも如意ヶ嶽が古くから信仰の対象であったとの言及がある。--></ref>、『京都市の地名』ではそれに加えて、この山が洛中のどこからでも見ることができたからではないかともしている。
 
「大」の字の意味についてもやはり諸説あり、「大」の字を人の五体に見立てたとの説<ref name = shinsen /><ref name = daimono63>『京の大文字ものがたり』p.63「大文字送り火はなぜ『大の字』か」</ref>もあれば、[[仏教]][[法相学]]でいうところの「四大」、すなわち地、水、火、風が由来であるとも言われ<ref name = daimono63 /><ref name = shikori>『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』</ref>、「大」の字が[[五芒星]]を表す、さらにはこの五芒星は[[北極星|北辰]]、すなわち[[北斗七星]]または[[北極星]]になぞらえたものであるとの説もある<ref name = daimono63 />。
 
火床の数は5位75法、すなわち75の煩悩が由来であるとする説があり、地元の浄土院もこれを採用している<ref>『京名物 大文字』p.4</ref><ref name = shinsen /><ref name = higa1957 />。ただし古い文献によれば火床の数は(そして火床の大きさも)まちまちであった。『雍州府志』では72または59余り、『京都坊目誌』では69床などがその一例である<ref>『京の送火 大文字』pp.19-20 この文献では『雍州府志』では72床とするが、『雍州府志』「慈照寺山」では、横の一画10箇余、左竪の一画20箇、右の一画29箇余である。</ref>。
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=== 送り火の中止と白い送り火 ===
[[太平洋戦争]]下にある1943年(昭和18年)、主として連合軍の[[空襲]]への備え、即ち[[防空]]上、[[灯火管制]]上の観点から、送り火の点火は見送られた。屋外での焚火等が禁止されており、空襲警報発令時に即座の消火が困難であるとみられたためという。そのため同年8月16日は早朝より[[京都市立第三錦林小学校|第三錦林小学校]]の児童400人とその他一般人400人、計800人が白いシャツを着用し大文字を登り、[[ラジオ体操]]を奉納し、これに代えることとなった。当時の京都新聞では''「英霊を送る」''ともされている<ref>『京都新聞』1943年7月17日朝刊、8月13日夕刊、8月16日夕刊</ref><ref name = anzai /><ref group = *>1943年8月17日付『大阪毎日新聞』では計2000人(『京の大文字ものがたり』pp.153-154 による)。</ref>。
 
翌1944年には[[京都市立錦林小学校|錦林小学校]]および第二、第三、第四錦林小学校の児童が人文字を表し<ref group = *>京都新聞では単に人文字としており、ラジオ体操への言及はない。</ref>、1945年も中止となっていたが、[[終戦]]より1年余りが過ぎた1946年8月16日には4年ぶりに送り火が行われた<ref>『京の大文字ものがたり』p.153「人文字の大文字」</ref><ref>『京都新聞』1944年8月17日朝刊、1946年8月17日朝刊</ref><!-- 京都新聞では1946についてのみ、松ヶ崎と西賀茂への言及あり。他は明示されているのは大文字のみ -->。
 
2012年(平成24年)3月11日午後には、前年発生した[[東日本大震災]]の追悼のため、第三錦林小学校児童および地元住民ら約400人により、白い紙で大の字を作った<ref>『京都新聞』2012年3月12日朝刊</ref>。
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=== 大文字中止騒動 ===
1962年(昭和38年)、送り火に対する京都市の助成金が少なすぎ、また人手も足りず崩れた火床の補修もままならないこと<ref group = *>当時60万円の経費の内、京都市の補助は10万円に過ぎず、ほとんどが地元負担であった。市や市民が大文字送り火を観光資源として利用し利益を得ているのに地元民ばかりに負担を強いるのは堪忍ならないという向きも多く見られていた。これについては1957年京都新聞編集局『東山三十六峰 -京都案内記-』でも言及されている。また1950年、大文字保勝会『京名物 大文字』での座談会 (p.49-)でも火床の維持、山道の補修などについて保勝会(当時)の声が掲載されている。なおこの座談会において当時の京都市観光課長は祇園祭・大文字送り火は宗教的行事であるので、市として表立っての支援は難しいと見解を述べている。</ref>、市が地元民の会談の要請を無視して大文字の麓の韓国学校に建設許可を与えたことへの反発により<ref group = *>付近に既に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の学校があり、南北朝鮮の対立感情からのトラブルの発生を恐れたとのこと。</ref>、8月12日、大文字保存会は送り火の準備作業である山道と火床の整備を停止。8月12日、総会での投票の結果賛成多数で送り火の中止が決定、点火はせずに大師堂での護摩法要だけを行う見込みとなった。また翌13日には地元有志70名が市に韓国学校の建設中止を陳情。
 
この年は折しも[[阪急京都本線]]の延長工事のため、[[祇園祭]]の[[祇園祭#山鉾巡行|山鉾巡行]]が中止となっており、京都市は説得を開始。京都市が韓国学校に工事の中止を勧告したほか、今後の協力の見込みが立ったことや、市民からの寄付金が寄せられるなどしたこと、また14日朝から京都市が労働者50人を供出し参道の整備作業を開始<ref group = *>京都市側は送り火とは関係なく、ハイキング客向けの、通常の市道整備を行っただけとコメントしている。</ref>し、さらに保存会役員や地元長老が説得に動くなどした結果、14日夜の総会で一転、満場一致で送り火の決行が決定し、送り火は無事に点火された<ref>『京都新聞』1962年8月12日-8月16日</ref><ref>『京の大文字ものがたり』pp.158-161</ref>。
 
1980年(昭和55年)2月、火焔・残り火の消火、および万が一それが類焼に及んだ時などの責任の所在を問題とし、また前年7月よりの申し入れにも拘らず市・消防当局の対応に誠意が見られないことを理由に、大文字五山保存連合会は送り火の中止を決定した。