「東ローマ帝国の皇帝一覧」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
'''[[王朝]]による分類は後世の歴史家によるものである。[[王朝]]の記事も参照のこと。'''
 
正式な[[君主号]]としては7世紀「東ローマ皇帝」を意味する単一称号は存在しない。[[ヘラクレイオス4世紀]]帝の治世初期までは古代[[ローマ帝国]]の「[[インペラートル]]、[[カエサル (称号)|カエサル]]、[[フラヴィウス]]、[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]」等の[[ラテン語]]の称号そのまま使用された。ておりかし東西の対立が深刻化した[[5世紀]]になると[[コンスタンティノープル]]の宮廷では[[ローマ市]]への対抗意識から「[[ローマ人]]の」という修飾語は用いられなくなった。例えば[[6世紀]]の皇帝[[ユスティニアヌス1世]]も「[[アラマン人]]の[[ゴート人]]の、[[フランク人]]の、[[ゲルマン人]]の、[[アント人]]の、[[アラン人]]の、[[ヴァンダル人]]の、[[アフリカ人]]のアウグストゥス」<ref>[[#井上・粟生沢1998|井上・粟生沢1998]]、p.40。</ref><ref>[[#井上2009|井上2009]]、p.297。</ref>とは名乗ったが「ローマ人のアウグストゥス」とは名乗らなかった<ref name="井上2009p20">[[#井上2009|井上2009]]、p.20。</ref>。[[7世紀]]の[[ヘラクレイオス]]治世初期には[[ギリシャ語]]の「諸王の王([[バシレウス]]([[諸王の王]])」用いられ、後には「アウトクラトール<ref>ラテン語のインペラートルに相当</ref>、カイサル、フラヴィオス、セバストスないしはアウグストス<ref>ラテン語のアウグストゥスに相当</ref>」等使用されるようになった。「東一方で古代ローマ皇帝」式の征服称号はヘラクレイオス意味す最後に用いられなくなった<ref>[[#井上2009|井上2009]]、p.298。</ref>。[[9世紀]]にな単一の称号に「ローマ人の」という修飾語が付加されるようになり<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.403-404。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.257。</ref><ref name="井上2009p20" />、以後存在滅亡まで一貫て「ローマ人の皇帝」を名乗るようにった<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.280。</ref>
 
日本人の研究者の間では、公用語が[[ラテン語]]であった[[フォカス]]までをラテン語で、公用語を[[ギリシア語]]に改めた[[ヘラクレイオス]]以降はギリシア語で表記するのが一般的であり、ここでもそれに従っている。ただし、日本では一部の名前が慣用として古代・中世のギリシア語の発音からかけ離れた音にのっとっている場合があり、すべてがギリシア語に忠実なわけではない。[[プロジェクト:東ローマ帝国史の用語表記]]も参照のこと。
31行目:
|[[317年]][[8月7日]]<br>[[シルミウム]]<br>(属州[[パンノニア]])
|337年5月22日 – [[361年]][[11月3日]]
|コンスタンティヌス1世の三男。兄弟3人で帝国を3分割し東方を担当した。ムルサの戦いで破り追い詰めた[[マグネンティウス]]が[[353年]]に自殺したため、ローマ帝国全体の皇帝となる。
|361年11月3日 <br> 自然死
|-
66行目:
|[[328年]]<br>キバラエ<br>(属州パンノニア)
|[[364年]][[3月28日]] – [[378年]][[8月9日]]
|ウァレンティニアヌス1世の弟。兄によって共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務めるされた。[[ハドリアノポリスの戦い]]で[[ゴート人]]の反乱軍に敗れて戦死する。
|378年8月9日 <br> ゴート軍との戦いで敗死
|}
86行目:
|[[347年]][[1月11日]]<br>[[:en:Coca, Segovia|カウカ]]<br>(属州[[ヒスパニア]])
|379年1月19日 – [[395年]][[1月17日]]
|ローマ軍の将軍であった[[:en:Count Theodosius|大テオドシウス]]の息子として生まれた。379年、グラティアヌスによって共同皇帝とされた後、そ。グラティアヌスの異母弟[[ウァレンティニアヌス2世]]の死によって単独皇帝となる。その後、[[394年]][[9月6日]]におきた[[フリドゥスの戦い]]簒奪者[[エウゲニウス]]を破り、最後の息子[[ホノリウス]]を西方正帝とすることでローマ帝国全体皇帝となっ東西を実質的に単独支配した。
|395年1月17日<br> 自然死
|-
123行目:
|-
|align="center"|[[Image:Leo I Louvre Ma1012.jpg|100px]]
|'''[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世“大帝”]]''' <br> <small>FLAVIVS VALERIVS '''LEO''' AVGVSTVS</small>
|[[400年]]
|[[457年]][[2月7日]] – [[474年]][[1月18日]]
|[[トラキア]]出身のベス族の軍人。マルキアヌスの死後、[[マギステル・ミリトゥム]]で[[ゲルマン人]]のアスパルに支持され即位。
|474年1月18日 <br> 病死
|-
139行目:
|'''[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]''' <br> <small>FLAVIVS '''ZENO''' PERPETVVS AVGVSTVS</small>
|[[426年]]
|474年11月17日 – [[475491年]][[14月9日]]
|レオ2世の父で後見役として共同皇帝にあったが、息子の死で単独皇帝に即位しとなった。即位間もない475年にレオ1世の義弟であったバシリスクスによって帝位[[コンスタンティノポリス]]を追われるが、翌476年にバシリスクスからコンスタンティノポリスを奪回。彼の治世に[[ロムルス・アウグストゥルス]]を廃位した[[オドアケル]]から西方帝位が献上されたため、名目上ではゼノンが東西合わせた全ローマ帝国の皇帝となった
|491年4月9日 <br> 病死
|-
149行目:
|レオ1世の義弟。ゼノンを追放して即位。
|476年/477年 <br> 処刑
|-
|align="center"|[[Image:Zeno.png|100px]]
|'''ゼノン''' (復位)<br> <small>FLAVIVS '''ZENO''' PERPETVVS AVGVSTVS</small>
|426年
|475年1月9日 – [[491年]][[4月9日]]
|[[コンスタンティノポリス]]に進軍してバシリスクスから帝位を奪回し復位。この治世のときに[[西ローマ帝国]]が滅亡し[[オドアケル]]から西方帝位を献上されたため、名目上ではゼノンが東西合わせた全ローマ帝国の皇帝となった。
|491年4月9日 <br> 病死
|-
|align="center"|[[Image:Anastasius I (emperor).jpg|100px]]
879 ⟶ 872行目:
 
'''東ローマ帝国滅亡'''
 
==脚注==
<references />
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[ゲオルグ・オストロゴルスキー]]|translator=[[和田廣]]|year=2001|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[恒文社]]|isbn=4770410344|ref=オストロゴルスキー2001}}
* {{Cite book|和書|author=[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[粟生澤猛夫]]|year=1998|title=世界の歴史11 ビザンツとスラヴ|publisher=[[中央公論社]]|isbn=9784124034110|ref=井上・粟生沢1998}}
* {{Cite book|和書|author=井上浩一|year=2009|title=ビザンツ文明の継承と変容|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=9784876988433|ref=井上2009}}
* {{Cite book|和書|author=[[尚樹啓太郎]]|year=1999|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[東海大学出版会]]|isbn=4486014316|ref=尚樹1999}}
 
==関連項目==
*[[東ローマ帝国]]
*[[ローマ皇帝一覧]]
*[[フランク・ローマ皇帝]]