「マグヌス・マクシムス」の版間の差分

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[[383年]]頃、マクシムスはブリタンニアの[[ローマ軍団]]によって皇帝として宣言された<ref name="#松原2010マクシムス" />。皇帝となったマクシムスは息子{{仮リンク|フラウィウス・ウィクトル|en|Victor (emperor)}}を共同皇帝とし、ブリタンニアの軍団を引き連れて[[ガリア]]へ侵攻すると、[[リヨン|ルグドゥヌム]]にて西帝[[グラティアヌス]]を捕らえて処刑した<ref name="南川2013p173" />。
 
マクシムスによってグラティアヌスが殺害されると、グラティアヌスによって[[東ローマ帝国|帝国東方]]へ派遣されていた[[フランク人]]の将軍[[バウト]]が東帝[[テオドシウス1世]]の軍団を率いて[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア]]へと引き返し、マキシムスと対陣した。しかし大テオドシウスの子であるテオドシウス1世にはマクシムスと争う意思がなかったようで<ref name="尚樹1999pp75">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.75-76。</ref>、テオドシウスは[[ミラノ]][[司教]][[アンブロシウス]]を調停役としてマクシムスと和議を結んだ。さらに翌[[384年]]にはテオドシウス自らイタリアへと赴き、マクシムスを共同皇帝と認めるようグラティアヌスの異母弟[[ウァレンティニアヌス2世]]を説得した<ref name="尚樹1999pp75" />。
 
マクシムスはテオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世からブリタンニア、ガリア、ヒスパニア、[[アフリカ]]の統治権を認められたが、それに飽き足らず、[[387年]]に突如としてウァレンティニアヌス2世をイタリアから追放して強引にイタリアをも支配下に置いた。ウァレンティニアヌス2世は[[テッサロニキ]]のテオドシウス1世のもとへと逃亡し、当時15歳前後であった妹の{{仮リンク|ガッラ|en|Galla (wife of Theodosius I)}}をテオドシウスに差し出すことでテオドシウスにマクシムスと戦うことを約束させた。
 
翌[[388年]]にテオドシウスが[[リコメル]]や{{仮リンク|[[アルボガスト (軍人)|en|Arbogast (general)|label=アルボガスト}}]]らを率いて侵攻してくると、マクシムスはテオドシウスを[[パンノニア]]で迎え撃ったが立て続けに敗れて[[アクイレイア]]へと逃亡し、間もなく捕らえられて[[8月28日]]に処刑された。[[トリーア]]にいたウィクトルもアルボガストによって捕らえられ、ほぼ同時期に処刑された。
 
マクシムスの処刑後、[[元老院 (ローマ)|元老院]]ではマクシムスに対する[[ダムナティオ・メモリアエ]]が決議された。マクシムスが妻を持っていたことは[[トゥールのマルティヌス]]の記録により確実視されているが、彼女の名前や、彼女がどうなったのかは不明である。マクシムスの娘たちと母親とは助命されたようであり、彼女達の子孫からは[[ペトロニウス・マクシムス]]や[[オリブリオス]]が出たとされる<ref name="#松原2010マクシムス" />。