「清水寺」の版間の差分

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平面は、桁行(間口)9間、梁間(奥行)7間の身舎(もや)が主体部となる(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す。以下も同)。身舎は奥の梁間3間分が内々陣、その手前の梁間1間分が内陣、内陣のさらに手前の梁間3間分が外陣となる。外陣内部は柱の省略がなく、独立柱が等間隔に立つ。内々陣と内陣の部分を正堂(しょうどう)、外陣部分を礼堂(らいどう)とも称する。一般拝観者が立入りできるのは外陣までである。この9間×7間の主体部の東・西・北面には1間幅の裳階(もこし、差し掛け屋根)をめぐらす。正面にあたる南面は、1間幅の庇を設け、その南には東西端にそれぞれ翼廊(楽舎)を設け、両翼廊の間に舞台を設ける。翼廊部分の屋根は入母屋造、妻入とし、外観に変化を与える。堂の西面にも裳階の外側に翼廊を設け、この部分を車寄と称する。裳階には、正堂部分では局(つぼね、参籠所)などが設けられている。外陣は東・西・南面を1間幅の廊下で囲まれ、外陣・廊下境には蔀戸を吊る。構造的には、礼堂の東と西の廊下は裳階、南の廊下は庇にあたる。裳階、翼廊を含めた平面規模は間口36メートル、奥行31メートルとなる。正堂部分は平坦な地面に建っているが、外陣及びそれより手前の部分は傾斜面に建っており、床下にはケヤキ材の長い柱と貫を縦横に組んで建物を支えている。このうち、もっとも手前(南)に位置し、せり出した舞台を支える6本の柱は平面十六角形で、長さ12メートルに及ぶ。これらの柱や貫は寛永再建時のものだが、舞台の床面の板(ヒノキ材)は、耐用年数が25 - 30年ほどで、たびたび張り替えられている。内々陣には、5間幅の須弥壇を設け、その周囲は床を一段低くし、石敷きの土間となる。須弥壇上には3基の厨子(国宝の附指定)が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、左(向かって右)の厨子には毘沙門天立像、右(向かって左)の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。三尊とも秘仏である(本尊については後述)。本尊厨子の左右には千手観音の眷属である[[二十八部衆]]像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置される。<ref>(横山、2008)、pp.81 - 96</ref>
 
思い切って物事を決断することを「'''清水の舞台から飛び降りるつもりで'''」と言うが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に[[飛び降り#清水の舞台から「飛び降り」る|飛び降りた]]人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件<ref group="注釈">『成就院日記』には記録が抜けている時期があり、記録が残っている148年分の合計。2度飛び降りて2度とも助かった女性がおり、飛び降りた実人数は234人。</ref> に上り、生存率は85.4[[パーセント|%]]であった。また、古来からこの場所で[[庶民]]が[[死体]]を投げ捨てていたことが伝えられており、清水の舞台が高く設計されていたのは、死体の[[腐敗]]臭が上がってこないようにする目的があったためだと言われている<ref group="注釈">かつて[[貴族]]や[[上流階級]]に当たる存在は[[火葬]]を行なっていたが、人間の死体には水分が多いことからそれを燃やすには大量の[[木材]]と[[技術]]を必要とし、当時の庶民には経済的に不可能な方法であった。それにより庶民は、死体を[[谷]]に投げ捨て雨風で腐敗しきるまで放置する[[風葬]]や、死体を[[木]]に吊るして[[鳥]]に啄ませる[[鳥葬]]などを行なっていた。</ref><ref>{{Cite web|url=https://tablo.jp/archives/13316|title=あなたの知らない京都観光ルート 清水の舞台はいったい“何のために”造られたのか!?|Mr.tsubaking?|publisher=TABLO|date=2019-07-07|accessdate=2019-07-14}}</ref>。明治5年([[1872年]])に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめた<ref>『京都清水寺さんけいまんだら』、pp100 - 101</ref>。
 
=== その他の建造物等 ===
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== 本尊 ==
=== 本堂本尊 ===
清水寺本堂本尊の[[千手観音]]立像は33年に1度開扉の秘仏であり、写真も公表されていない<ref>清水寺信徒総代であった仏師・西村公朝の調査によると、秘仏本尊は寄木造、素地仕上げで像高は173cm、鎌倉時代中期頃の作であるという(横山正幸『京都清水寺さんけいまんだら』、p88)。</ref>。ただし、秘仏本尊を模して造られた「お前立ち像」の写真は公表されている。本像は、42本の手のうち、左右各1本を頭上に伸ばして組み合わせ、化仏(けぶつ)を捧げ持つ特殊な形式の像である。このような形式の像を「清水寺形千手観音」と称し、これを模した[[彫像]]、画像が日本各地に存在する<ref group="注釈">彫像では神奈川・龍峯寺像、画像では愛知・天永寺護国院本などがある。</ref>。このような、脇手のうちの2本を頭上に掲げる形の千手観音については経典に典拠がなく、その由来は未詳である。脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置するが、このうち地蔵菩薩像は、鎧で武装した上に袈裟を着け、兜をかぶり、剣を持つ特殊な形の像である。
 
本堂本尊は、[[20世紀]]末以降では以下の機会に開帳された。
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=== 重要文化財(美術工芸品) ===
* 木造千手観音坐像(奥の院本尊)
* 木造十一面観音立像 - 本堂本尊の十一面千手観音立像とは別個の像である<ref group="注釈">この重要文化財の十一面観音像を本堂本尊と誤認している文献があるので注意を要する。</ref>。
* 木造伝・観音菩薩・勢至菩薩立像(もと阿弥陀堂安置)
* 木造大日如来坐像(もと真福寺大日堂安置)
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==