「陳祖徳」の版間の差分

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== 経歴 ==
7歳の時に顧水如に師事。9歳の時の棋譜を見た[[瀬越憲作]]に「第2の[[呉清源]]」と言われる。1956年に[[梅蘭芳]]と[[呉清源]]の相談で、陳と陳錫明の二人の少年を日本に留学させようという試みがあったが<ref>桐山桂一『呉清源とその兄弟 呉家の百年』206頁 岩波書店 2005年</ref><ref>{{cite web|url=http://dangshi.people.com.cn/n/2014/1211/c85037-26190561.html|title=吴清源与梅兰芳论棋|publisserpublisher=[[人民網]] |date=2014-12-11|accessdate=2018-03-20}}</ref>、[[長崎国旗事件]]が外交問題となり、計画は立ち消えとなる。1958年に上海合宿訓練隊に入り、1959年には上海市囲碁大会に優勝、国家集中訓練隊に入る。1964年に[[全国囲棋個人戦]]で優勝、また段位制度の開始により最高段の五段となる。[[日中囲碁交流]]では1961年から出場し、1965年には[[岩田達明]]九段を破り、中国棋士として初めて日本の九段に[[互先]]で勝利する。この勝利を記念して、この対局で陳が用いた中国流布石を図案にした[[切手]]も発行された。陳はこの頃中国流布石を研究、実践しており、これを見た[[島村俊廣|島村俊博]]九段が研究し、日本でも徐々に流行するようになる。
 
1970年に[[文化大革命|文革]]により[[山西省]]に下放されるが、[[周恩来]]の計らいで[[北京市|北京]]に戻される。全国個人戦では1960年に3位、1962年に2位、1964年から文革を挟んで3連覇。1979年の第1回[[世界アマチュア囲碁選手権戦]]では、[[聶衛平]]に次いで2位。1982年に新しい段位制度により、プロ棋士九段となる。1992年に中国棋院設立とともに院長となる。