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'''久邇宮朝彦親王'''(くにのみや あさひこしんのう、[[文政]]7年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]([[1824年]][[3月27日]]) - [[明治]]24年([[1891年]])[[10月25日]])は、日本の[[皇族]]。[[伏見宮]][[伏見宮邦家親王|邦家親王]]の第4[[王子]]。通称に'''中川宮'''(なかがわのみや)他多数。[[諱]]もたびたび改名している。[[北朝 (日本)|北朝]]第3代[[崇光天皇]]の男系15世子孫。
 
[[昭和天皇]][[皇后]][[香淳皇后]]の祖父であり、[[上皇明仁]](第125代天皇)の母方のからは[[続柄#祖父母|曽祖父]][[徳仁|今上天皇]]・[[秋篠宮文仁親王]]からは[[続柄#高祖父母|高祖父]]にあたる
 
== 人物・来歴 ==
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さらに中川宮は[[京都守護職]]を務める[[会津藩]]主[[松平容保]]やこの時期会津藩と友好関係にあった[[薩摩藩]]と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、[[八月十八日の政変]]を行う。同年[[元服]]を済ませて'''朝彦'''(あさひこ)の諱を賜り、親王任官職の二品[[弾正台|弾正尹]]に任じられる。以後は弾正尹の通称である'''尹宮'''(いんのみや)とも呼ばれた。
 
八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐されると、朝彦親王や[[関白]][[二条斉敬]]は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うことにもり、「陰謀の宮」などと呼ばれようになった
 
[[元治]]元年(1864年)、[[因幡国]][[鳥取藩]]士[[河田景与]]らを中心とした一部の尊攘派は、朝彦親王邸への放火や松平容保の襲撃を計画、長州藩と長州派公卿との連絡役でもあった[[古高俊太郎]]に大量の武器を用意させた。しかし、計画途上で古高が[[新選組]]に捕らえられ、[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]の夜に関与していた者の多くが潜伏していた三条木屋町の旅館・池田屋で闘死、もしくは捕縛された([[池田屋事件|池田屋騒動]])。
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この年、宮号を中川宮から'''賀陽宮'''(かやのみや)に改めた。京都御所南方の旧[[一条富子|恭礼門院]]の[[女院]]御所跡地に屋敷が与えられ、[[賀陽宮]]は家禄1500石で[[宮家]]の列に新しく加わった。同年7月19日、長州藩兵が京都へ攻め上る[[禁門の変|蛤御門の変]]が勃発、その懲戒として幕府は前後2度にわたる[[長州征討]]を行ったが、1度目は長州藩のあっけない降伏により短期間で終結、[[慶応]]2年(1866年)に行われた2度目の征伐では長州藩の前に敗北を重ねる中で、幕府は14代将軍[[徳川家茂]]を病で失い、同年9月に実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。12月には家茂の後を追うように孝明天皇が崩御し[[明治天皇]]が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。一方幕府では15代将軍となった徳川慶喜が意表をつく[[大政奉還]]によって国政の主導権を確保しようとしていた。
 
慶応3年(1867年)12月9日、[[小御所会議]]において[[王政復古 (日本)|王政復古]]が決定し、これに伴い長州藩主[[毛利敬親]]・[[毛利元徳|毛利広封]]父子や、有栖川宮熾仁親王・[[中山忠能]]・[[三条実美]]・[[岩倉具視]]ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。一方の朝彦親王は明治元年(1868年)8月に徳川慶喜へ密使を送るなどし陰謀を企てたとして親王位を剥奪され、[[広島藩]]預かりとなった<ref>{{アジア歴史資料センター|A15070049200|加陽宮ヲ安芸ニ幽ス}}</ref>その後明治52(1872(1869)正)36日[[伏見宮安芸国]]に復籍するま、朝彦親王は政治の表舞台からは姿を消す幽閉されることなった<ref>{{アジア歴史資料センター|A15070049200|加陽宮ニ令シ居ヲ安芸ニ定メ其地ニ謹慎セシム}}</ref>
 
=== 明治期 ===
明治3年([[1870年]])閏10月、政府から京都の伏見宮邸戻る許可を得護送す命令が下り、帰京した<ref>{{アジア歴史資料センター|A15070049400|加陽宮ニ特旨ヲ似テ安芸ヨリ復帰セシム}}</ref>。明治5年1月、謹慎を解かれて、伏見宮家の一員に復帰する。同年7月、東京移住を命令されるものの、京都で暮らし続ける。維新前後の経緯から[[明治維新#中央政府|明治新政府]]の中枢には入らなかった。こうしたことが、後に[[久邇宮邦彦王]]や[[東久邇宮稔彦王]]ら子息たちの感情や行動に複雑な影響を与えたとの指摘もある。
 
明治8年([[1875年]])4月、一代宮家となる。同年5月、新たに[[久邇宮]]家を創設する。明治16年7([[1883年]])7月11日、二代皇族に列せられた<ref>{{アジア歴史資料センター|A15110401400|二品勲一等朝彦親王、特旨ヲ以テ二代皇族ニ候事」ス}}</ref><ref>『官報』第20号、「賞勲敍任」1883年7月24日。p.3</ref>とある。明治20年、世襲の皇族になったのにともない、次男邦憲王が病弱のため、三男邦彦王を継嗣と定める。明治22年([[1889年]])の[[皇室典範 (1889年)|旧皇室典範]]成立により、久邇宮家を含む全ての宮家が永世皇族となった
 
明治8年7月、[[伊勢神宮]]の[[祭主]]に就任する。かつて[[天台座主]]を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。