「甲府藩」の版間の差分

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[[甲斐国]]は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[守護]][[武田氏]]により国内統一され、[[武田信虎]]から[[武田信玄|晴信]](信玄)期にかけて[[甲府]]に府中が移転され、[[甲府盆地]]北縁の相川扇状地に居館である[[躑躅ヶ崎館]]が築造され、[[要害山城]]や後に[[甲府城]]が築かれる一条小山などの支城が築かれて府中防衛体制が整えられ、館を中心とした[[城下町]]の整備が行われた。
 
信玄期から[[武田勝頼|勝頼]]期にかけて武田氏は信濃、駿河に領国を拡大させ、甲府城下町も拡張した。勝頼期には[[長篠の戦い]]での織田・徳川連合軍への大敗を契機とした領国の動揺を招き、甲府から西の韮崎に新たに府中の移転を試みて[[新府城]]を築城して領国の維持を図るが、[[天正]]10年([[1582年]])に[[甲州征伐|織田・徳川連合軍の侵攻]]により滅亡した。
 
武田氏の滅亡後、[[織田信長]]は家臣の[[河尻秀隆]]に甲斐一国を与えるが、同年6月に[[本能寺の変]]で信長が横死すると、甲斐では武田遺臣による一揆で秀隆河尻が殺害され、無主状態に陥った。武田遺領は遠江の[[徳川家康]]と相模の[[北条氏政]]が争った[[天正壬午の乱]]の結果徳川の支配となる。家康は家臣の[[平岩親吉]]に新たに命じて一条小山に甲府城を新たに普請させ、甲斐の守備を任せた。
 
天正18年([[1590年]])、[[豊臣政権]]に臣従した家康は関東に移封され、徳川領と接する甲斐は重要視され、[[豊臣秀勝]]、[[加藤光泰]]、[[浅野長政]]・[[浅野幸長]]父子などの豊臣系大名が入国した。
 
== 藩史 ==
[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で幸長は東軍に与して功を挙げたため、[[紀州藩]]へ加増移封された。その後、家康の八男で[[平岩親吉]]の養子・[[松平仙千代|徳川仙千代]]が親吉の後見のもとに入ったが、同年のうちに夭折した。そのため、家康の九男・[[徳川義直]](五郎太丸)が25万石で入るが、幼少であったため、やはり親吉の後見を受けた。
 
義直と親吉が[[尾張国|尾張]][[清洲藩]]に加増移封された後、[[徳川秀忠]]の三男・[[徳川忠長]]が[[駿府城|駿河国府中]]に入る。この時に[[遠江国|遠江]]・甲斐も忠長の所領とされた。やがて忠長は素行の悪さから改易された。
 
その後、甲斐は[[天領|幕府直轄領]]となっていたが、慶安4年([[1651年]])に3代将軍[[徳川家光|家光]]の三男である[[徳川綱重]]が甲斐を拝領し、甲府藩が成立する。[[甲府徳川家]]による甲斐統治は、それまでの幕府代官を召抱え在地支配を委託していたが、[[寛文]]元年([[1661年]])には家臣団への知行宛行・代官など支配機構の整備や甲斐国内の[[旗本]]領の整理などを行い、藩政支配が開始された。
 
綱重は嗣子のない兄の4代将軍[[徳川家綱|家綱]]の後継者と目されていたが早世し、長男の[[徳川家宣|綱豊]](後の6代将軍家宣)が跡を継いだ。しかし、嗣子がない5代将軍[[徳川綱吉|綱吉]]が娘婿の[[徳川綱教]]死後、綱豊を後継者と決め、家宣と改名して[[江戸城]]西の丸に移ることとなった。
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== 甲府勤番 ==
'''甲府勤番'''は、[[享保]]9年([[1724年]])、柳沢吉里の郡山藩移封後に将軍徳川吉宗が、[[享保の改革]]の一環として天領拡大のため、[[甲斐国]]直轄支配のために創設され[[江戸幕府]]の職制である。[[老中]]支配下。定員2名で、役高は3000石。甲府城内大手と山手に配置され、配下に勤番士200名、[[与力]]20人、[[同心]]50人を付けられ、甲府城の守護と府中政務や[[訴訟]]の処理を務め
 
幕府[[小普請組]]から多く任命されており、平均着任年齢は50代。勤番を機に要職から退くケースも多く、幕臣の素行不良の懲戒や仕事場を失った余剰幕臣の受け皿であり、勤番任命は「山流し」と言われ[[旗本]]・[[御家人]]にとっては改易一歩寸前の左遷にも等しい職務であるとも評される。
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