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[[ファイル:Hoshina Masayuki.jpg|thumb|180px|会津松平家初代の保科正之]]
==== 保科正之の時代 ====
加藤改易後の寛永20年([[1643年]])、[[出羽国|出羽]][[山形藩]]より3万石加増の23万石で[[保科正之]]が入部し{{Sfn|野口|2005|p=34}}{{Sfn|野口|2005|p=40}}、以後会津藩は[[会津松平家]](保科家)の支配が定着する。会津松平家は幕末までに[[内高]]は40万石を突破して、表高より内高が下回ることすらあった徳川御三家の[[水戸藩]]より実収入が多い藩となり、藩の軍事力もこれを上回っていた。また、南山御蔵入領5万石も預かり地として任されたが、実質的には会津藩領同様に扱われており{{Sfn|野口|2005|p=41}}、実質28万石といってよかった(28万石では御三家の水戸藩を超えてしまうことからの配慮のためであるとされる){{Sfn|野口|2005|p=34}}。
 
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍[[徳川家光|家光]]の異母弟である{{Sfn|野口|2005|p=35}}。家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子[[徳川家綱|家綱]]が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた{{Sfn|野口|2005|p=43}}。正之は[[大老]]として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは[[正保]]4年([[1647年]])と晩年の数年間のみであった{{Sfn|野口|2005|p=43}}。この間、正之は幕政において[[明暦の大火]]における対策で敏腕を発揮しているが{{Sfn|野口|2005|p=47}}、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く[[保科正貞]]に譲って、徳川一門として認められており{{Sfn|野口|2005|p=40}}、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した{{Sfn|野口|2005|p=57}}。
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変後、長州藩の処分を求めて、二度の[[長州征伐]]を主導した。完全な武力討伐となった第二次長州征伐では京都の守備を担当する。しかし、出兵した幕府軍は各地で長州軍に撃破され、さらに将軍[[徳川家茂]]が大阪城で病没する事態に見舞われる。不利を判断した徳川慶喜によって停戦となったが、征討側の城と領土が逆に占領されるなど事実上の敗戦となった。慶応2年12月(1867年1月)に[[孝明天皇]]が崩御、慶応3年10月14日の[[大政奉還]]により江戸幕府が消滅。慶応3年12月9日には薩摩藩・尾張藩・越前藩・土佐藩・芸州藩の五藩による政変が起こり、[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]が発令されて新政府が誕生した。従来の親幕府派であった公家が排除され、王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わるなど、今度は会津藩が追放される形となり、大阪城に退いた。そのやり方は皮肉にも、かつて長州藩を追放する為に起こした八月十八日の政変と同じ物であった。慶応4年、[[鳥羽・伏見の戦い]]([[戊辰戦争]])が勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、[[朝廷]]は会津藩を「[[朝敵]]」とした。その後の東北戦線において、会津藩は[[奥羽越列藩同盟]]の支援を受け、[[庄内藩]]と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い([[会津戦争]])に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある<ref>会津若松市観光公社『えっ!?会津が首都??』。</ref>。なお、戊辰戦争の直前及び交戦中には[[庄内藩]]とともに、当時の[[プロイセン王国]]に対して、駐日代理[[公使]][[マックス・フォン・ブラント]]を通じて[[蝦夷地]](北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている<ref group="注釈">ただし普仏戦争の直前で余裕がなかったことから[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって拒否されている。</ref><ref>2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面</ref><ref>「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『[[読売新聞]]』朝刊2017年5月17日文化面</ref>。
 
降伏により、会津藩領は会津松平から没収された。藩主の容保は[[鳥取藩]]預かりの禁錮刑となった。明治2年([[1869年]])に容保の嫡男[[松平容大|容大]]は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在:[[青森県]][[むつ市]])に[[#斗南藩|斗南藩]]を立てた{{Sfn|野口|2005|p=197}}。また、藩士数名はカリフォルニアに移民した。一方、[[廃藩置県]]を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日(1871年新暦[[8月29日]])の廃藩置県では、会津地方は[[若松県]]となったものの、明治9年([[1876年]])[[8月21日]]には[[福島県]]1876年以前(旧の[[二本松藩]]など)と[[磐前県]](旧の[[磐城平藩]]と[[相馬中村藩|中村藩]])と合併され、福島県に入れられた。
 
=== 戊辰戦争後 ===
容保の家系からは初代[[参議院議長]]の[[松平恒雄]]・[[雍仁親王妃勢津子]]父子、[[福島県知事一覧|福島県知事]]の[[松平勇雄]]や、徳川宗家第18代当主[[徳川恒孝]]が出ている。元白虎隊兵士の [[山川健次郎]]は戦後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への国費留学生に選抜され、 [[イェール大学]]で[[物理学]]の学位を取得して帰国している。帰国後に日本人として初の物理学教授になった後に東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。その後に理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任するなど重用された<ref>『「明治150年」を強調』朝日新聞2018年1月23日 </ref>
元白虎隊兵士の [[山川健次郎]]は戦後に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]への国費留学生に選抜され、 [[イェール大学]]で[[物理学]]の学位を取得して帰国している。帰国後に日本人として初の物理学教授になった後に東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。その後に理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任するなど重用された<ref>『「明治150年」を強調』朝日新聞2018年1月23日 </ref>。
 
== 福祉 ==
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会津藩では家老を出す家柄を三家(北原、内藤、田中)、六家(簗瀬、西郷、高橋、小原、井深、三宅+梶原)と呼称する。
 
=== 三家 ===
*北原(北原妥女家 2800石) - 北原光次は保科正光、正之に仕えた。一説に正光の庶子といわれる。
*[[内藤氏|内藤家]](内藤介右衛門家 2200石) - 内藤昌月の孫の自卓は、保科正之に仕えた。子孫は武川を名乗り、後に本家は内藤を名乗る。当主の[[仮名 (通称)|仮名]]は源助、介右衛門。
*田中(田中三郎兵衛家 会津藩内2000石)
*:[[田中正玄]]…[[田中玄宰|玄宰]]…玄良-[[田中玄清|玄清]]
 
=== 六家 ===
*簗瀬(梁瀬三左衛門家 2200石) - 梁瀬正真(柳瀬正真)は元[[最上家]]家臣で、最上家改易後に正之に仕えた。
*[[西郷氏#三河西郷氏|西郷]](西郷頼母家 1700石・藩主一門) - 称:保科姓
*:保科正勝([[保科正俊]]の次男)
*:-正近-正長=[[西郷近房]]([[西郷元次]]の次男・正近の外孫)
*:近方-近張-近致=近義-近寧-[[西郷近光|近光]]-[[西郷近思|近思]]-[[西郷頼母|保科近悳(西郷頼母)]]=[[西郷四郎]](会津藩士・志田貞二郎の三男)
*高橋(高橋外記家 1300石) - 元[[鳥居忠政]]の家臣で、鳥居家改易後に正之に仕える。
*小原(小原五郎右衛門家 1200石) - 小原俊胤は保科正俊の娘を娶り保科家に仕えた。俊胤の曾孫の光俊は正之に仕える。
*井深(井深茂右衛門家 1000石) - 井深重吉は保科家譜代の家臣で、[[甲州征伐]]の際に[[武田勝頼]]の人質となっていた保科正光を救出した。孫の重光は正之に仕える。
*三宅(三宅孫兵衛家 1400石) - 三宅重直は元鳥居忠政の家臣で、鳥居家改易後に正之に仕える。
*梶原(梶原平馬家 1000石) - 甲斐武田家の浪人だった梶原景信は貧しく親を養えず、弟にキリシタンだと嘘の訴えをさせ報奨金を得ようとした。この評判を聞いた正之に召抱えられる。
*[[神保氏|神保家]](重臣) - 徳川家に仕えた[[神保氏張]]の子長利は、上杉家、最上家、鳥居家に仕えた後に正之に仕えた。幕末の神保利孝(神保内蔵助)は子孫。
 
*:[[神保内蔵助]] - [[神保修理|修理]]
 
*[[横山氏|横山家]] - 横山光定は九・六騒動により本多家を浪人し、その子常定は会津藩に仕えた。常定の娘[[栄光院 (松平正容継室)|栄光院]] が、3代藩主正容の寵愛を受けたため横山家も取り立てられた。
*[[神保氏]](重臣)徳川家に仕えた[[神保氏張]]の子長利は、上杉家、最上家、鳥居家に仕えた後に正之に仕えた。幕末の神保利孝(神保内蔵助)は子孫。
*:横山常元=[[横山常守#父・常徳|常徳]](横山常明の二男・常元の甥)=[[横山常守|常守]](常徳の養子・常道の遺子)
:[[神保内蔵助]] - [[神保修理|修理]]
*[[諏訪氏|諏訪家]](誠訪大四郎家 1700石) - [[諏訪頼忠]]の孫重光は高遠城主の保科正光に仕えた。父は頼定。
*[[横山氏]] 横山光定は九・六騒動により本多家を浪人し、その子常定は会津藩に仕えた。常定の娘[[栄光院 (松平正容継室)|栄光院]] が、3代藩主正容の寵愛を受けたため横山家も取り立てられた。
:横山常元=[[横山常守#父・常徳|常徳]](横山常明の二男・常元の甥)=[[横山常守|常守]](常徳の養子・常道の遺子)
*[[諏訪氏]](誠訪大四郎家 1700石) [[諏訪頼忠]]の孫重光は高遠城主の保科正光に仕えた。父は頼定。
 
== 斗南藩 ==
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|}
 
ただ旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年([[1870年]])1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。[[柴五郎]]によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士[[秋月悌次郎]]が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される<ref>『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁</ref>。また葛西富夫は、「南、すなわち[[明治政府|薩長政府]]と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001212250/jpn/ 葛西富夫著『斗南藩史』昭和46年8月斗南会津会]</ref>。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001209430/jpn/ 『五戸町誌下巻』五戸町誌刊行委員会]</ref> の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、[[五戸]]に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の[[青森県]][[むつ市]]田名部の[[円通寺 (むつ市)|円通寺]]に移った。また[[北海道 (令制)|北海道]][[後志国]]の[[歌棄郡|歌棄]](うたすつ)・[[瀬棚郡|瀬棚]]・[[太櫓郡|太櫓]](ふとろ)及び[[胆振国]][[山越郡|山越]]の計4[[郡#日本の郡|郡]]も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
 
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5,0005000石であったが、藩領の多くは[[火山灰]]地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)7,3807380石に過ぎなかった<ref>『秩禄処分顛末略』 229頁</ref>。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は[[柴五郎]]によって語られている。
<!--旧会津藩士は着替える服もなく、みすぼらしい格好で[[シラミ]]がわき、草の根や木の皮までも食していたことから、下北地方では「会津のゲダガ(毛虫)」と侮蔑されていた。下北半島では、斗南藩士の子[[柴五郎]]が凄絶な言葉で叱咤されたことを記憶している。「ここは戦場なるぞ。戦場なれば犬肉なりとて食らうものぞ。やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと。薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ!生き抜け!生きて残れ!会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ!ここはまだ戦場なるぞ!」と。こうして犬肉を手にしたが、食料に事欠いていた他の斗南藩士に分けてくれと泣きつかれ、肉の半分を持ち帰らせた。犬の肉は塩茹でにして食したものの、四、五日もすると臭いが鼻につき、喉を通らなくなるが、他に食べるものはない。我慢して20日ほど食い続けたら、兄嫁は頭髪が抜け落ち、薄禿げになったという。
 
斗南藩士の妻娘はさらに悲惨であった。病臥の家族を養うため、売春婦や妾として糊口をしのいだが、仲間から糾弾され「生活の糧に肉体は売っても、魂までは売りませぬ」と慟哭したという。-->
その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事[[広沢安任|廣澤安任]]らによる明治政府への建言により、同年9月4日に[[弘前藩|弘前県]]・[[弘前藩#黒石藩|黒石県]]・[[盛岡藩#七戸藩|七戸県]]・[[盛岡藩#八戸藩|八戸県]]・[[松前藩#館藩|館県]]との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は[[岩手県]]に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7,3277327人の内3,300うち3300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4,0004000人余の斗南藩士卒族が残留していた<ref>『会津若松史』 240頁</ref>。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、[[北村正哉]](元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)[[子爵]]となり、[[華族]]に列した。
 
*藩主:[[松平容大]](まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕
 
== 藩邸および江戸での菩提寺 ==
[[文政]]年間の[[江戸藩邸]]は上屋敷は和田倉御門内にあり、中屋敷は源助丁海手に、下屋敷は三田綱坂にあった。また江戸での菩提寺は下谷の[[臨済宗大徳寺派]]寺院の円満山[[広徳寺 (練馬区)|広徳寺]]<ref group="注釈">現在は練馬区へ移転している。</ref>で[[加賀藩]]や[[常陸国]][[谷田部藩]]も江戸での菩提寺として使用していた。
 
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Aizu Domain}} ・新撰組
 
* [[白虎隊]]
* [[玄武隊]]
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[[Category:会津藩|*]]
[[Category:藩]]
[[Category:陸奥国||あいつ]]
[[Category:蒲生飛騨守家|藩あいつ]]
[[Category:加藤左馬助家|藩あいつ]]
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|1-1=明治時代に成立した藩
|1-2=会津藩
|1-3=陸奥国の藩 (1869-)
|1-4=会津松平家
|1-5=むつ市の歴史