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→‎日中戦争: 画像:蒋 介石(1940年)
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* [[明治天皇]]を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を[[明治神宮]]へ公式参拝させている<ref>許國雄著 『台湾と日本がアジアを救う-光は東方より』 明成社ほか</ref>。
* 第二次大戦中に、日本軍が[[拉孟]]・[[騰越]]で連合軍の大軍<ref>拉孟では32倍・騰越では25倍。</ref>を相手に戦い、それぞれ味方の6倍の損害を与えて[[拉孟・騰越の戦い|玉砕した]]ことを讃え、「東洋道徳の範とせよ」と中国軍に訓令を発している<ref>相良俊輔著『菊と龍』光人社ほか</ref>。
* 戦後、台湾へ移ってからは、[[富田直亮]][[少将]]を団長とする旧日本軍の将校団(白団)を招き、国府(中華民国国民政府)軍を秘密裏に訓練させた。米国政府はこれを厳しく非難し、国府軍内にも反対の声が挙がったが、蒋介石は白団による教育訓練を断固推進した。
**1949年10月、中国人民解放軍が[[金門島]]等へ大挙侵攻を図った際は、旧日本軍の[[根本博]][[中将]]<ref>終戦時に[[張家口]]でソ連の大軍を迎撃撃破し、在留邦人を無事避難させたことで知られている。</ref>らが国府軍を作戦指導し、人民解放軍を完膚なきまでに撃破している<ref>中村祐悦著『白団ー台湾軍を作った日本軍将校たち』芙蓉書房ほか</ref>([[古寧頭戦役]])。
 
日本の敗戦後は、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と称して8月15日に行なった終戦演説で対日抗戦に勝利したことを宣言した一方で次のように国民に訴えた。
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{{Quotation|わが中国の同胞は、『旧悪を念わず』と『人に善を為す』ということがわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません。われわれは一貫して、日本人民を敵とせず、ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると明言してきました。今日、敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました。彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するように、われわれが厳格に督励することは言うまでもありません。但し、われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼らが自らの誤りと罪悪から抜け出すことができるように、彼らがナチス的軍閥によって愚弄され、駆り立てられたことに、われわれは、慈愛をもって接するのみであります。もし、かっての敵が行なった暴行に対して暴行をもって答え、これまでの彼らの優越感に対して奴隷的屈辱をもって答えるなら、仇討ちは、仇討ちを呼び、永遠に終ることはありません。これはわれわれの仁義の戦いの目的とするところでは、けっしてありません。これはわれわれ軍民同胞一人一人が、今日にあってとくに留意すべきことであります}}
 
戦後、日本の歴代政権は中華民国を反共陣営の一員として、また国連の[[常任理事国]]として修好に努めていたが、日本と中華人民共和国の間に国交樹立の機運が高まると中国国民党は危機感を強め、日本の保守メディアに急接近し様々な宣伝活動を行うようになった(代表例として[[サンケイ新聞]]による[[蒋介石秘録]]の連載、[[國民新聞 (1972年-)|國民新聞]]による反中国共産党パンフレットの発行、[[マスコミ総合研究所]]の雑誌アジア・レポートの発行)。そのような中で多くの自民党政治家や保守言論人が蒋介石が主張したとされる「[[以徳報怨]]」を引用して蒋介石礼賛を行った。2008年に[[平沼赳夫]]は「蒋介石が日本の天皇制を守ってくれた」と擁護し、「日本と中華民国の国交が断絶した後も、日本の政治家が中華民国を訪れた時は蒋介石の墓に参るのが礼儀であったが近年は行われなくなった」との批判を行った<ref>2008年1月28日にマスコミ総合研究所の会合にて。</ref>。2009年には[[森喜朗]]が、[[金美齢]]の面前で「日本が今日あるのは蒋介石のおかげであり、日本人は蒋介石に感謝しなくてはならない」とのスピーチを行った<ref>2009年12月23日[[日本李登輝友の会]]が主催した日台共栄の夕べ</ref>。
 
一方、{{誰範囲|date=2017年5月|渡辺望}}は、蒋介石は日記に[[昭和天皇]]を「[[倭王]]」と軽蔑表現するなど精神的にはまったくの反日・侮日家であり、その反日的姿勢は[[南京事件 (代表的なトピック)|南京事件]]などで日本を[[ジェノサイド]]国家にでっちあげようとしたことで明白だという<ref name=wat>『蒋介石の密使 辻政信』(渡辺望 祥伝社新書)2013年に</ref>。また終戦時の「以徳報怨」演説にみられる親日主義的態度も、アメリカに見捨てられつつあった蒋介石が敗戦日本を「新たな同盟国」として抱き込むための苦し紛れの策略であったとしている<ref name=wat/>。また2005年に公開されたCIA機密文書[[ヴェノナ]]で判明した、蒋介石が[[辻政信]]ら旧日本軍将校を敗戦時にエージェントとして抱き込み、敗戦日本に送り込んだと指摘している<ref name=wat/>。また[[BC級戦犯]]として第6師団長[[谷寿夫]]、同師団歩兵第45連隊中隊長[[田中軍吉]]、[[百人斬り競争]]をしたと報じられた[[向井敏明]]少尉と[[野田毅 (陸軍軍人)|野田毅]]少尉らは[[南京軍事法廷]]で処刑されたが、当時の政権は蒋介石の[[中国国民党]]政府であった<ref>秦郁彦「南京事件 増補版」中公新書、p46-50.</ref>(とはいえイギリスやオランダの戦犯裁判に比べると有罪判決の率は少なかった)。