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[[ファイル:Huang Zong-Xi.jpg|thumb|right|180px|黄宗羲]]
'''黄 宗羲'''(こう そうぎ、Huáng Zōngxī、[[万暦]]38年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[1610年]][[9月24日]]) - [[康熙]]34年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]([[1695年]][[8月12日]]))は、[[中国]][[明]]末・[[清]]初の[[儒学者]]。[[字]]は'''太沖'''。号は'''南雷''''''梨洲という'''。紹興府[[余姚県]]の出身。明の滅亡に際して反清運動に参加するが後に故郷に隠棲して学術に没頭、[[陽明学]]右派の立場から実証的な思想を説き、[[考証学]]の祖と称された。
 
== 事績略歴 ==
紹興府[[余姚県]]の出身であり、[[王陽明]]とは同郷にあたる。父の[[黄尊素]]は明末の[[東林党]]の指導者の一人として知られ、[[1626年]]に時の権力者で、東林党に対抗する閹党を従えていた[[魏忠賢]]の弾圧を受け獄死した。
 
黄宗羲は東林党の精神を引き継いだ政治結社[[復社]]に参加、[[1644年]]に[[李自成]]によって明が滅び、清が[[中国本土]]に侵入してくると郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。彼は魯王[[朱以海]]の政権に協力し、[[1649年]]には[[長崎市|長崎]]を訪れ[[日本]]の[[江戸幕府]]に反清の援軍を要請している(この時の一部始終は『[[日本乞師記]]』にまとめられている)。この時の要請は果たせず、結局反清復明の運動は絶たれてしまい、以後は故郷で著述に明け暮れる日々を送った。