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== 概要 ==
永久元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]](1113年[[10月12日]])に鳥羽天皇が病気になり、祖父である[[白河天皇|白河法皇]]の命令で各地の寺社で祈祷を行わせ、[[非常赦]]などの措置を執り行った。
永久元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]](1113年[[10月12日]])に鳥羽天皇が病気になり、祖父である[[白河天皇|白河法皇]]の命令で各地の寺社で祈祷を行わせ、[[非常赦]]などの措置を執り行った。ところが、[[10月3日 (旧暦)|10月3日]](『[[殿暦]]』、『[[百錬抄]]』では4日)に白河法皇の3女で鳥羽天皇の[[准母]]である[[令子内親王]]の[[御所]]に落書が投げ込まれた。そこには「主上を犯し奉らんと構ふる人あり」と書かれ、続いて[[醍醐寺]][[座主]][[勝覚]]に仕える千手丸という[[稚児]](童子)が鳥羽天皇の暗殺の準備をしているとの密告が書かれていた。驚いた内親王は父・法皇に落書を見せた。白河法皇は直ちに[[検非違使]]を派遣して千手丸を捕縛して厳しい尋問を行った。千手丸は自分に天皇暗殺を命じたのは勝覚の実兄で法皇の異母弟・三宮([[輔仁親王]])の護持僧を務めていた[[仁寛]]([[三宝院]][[阿闍梨]])であったこと、仁寛が9月の天皇の病気の際に天皇の[[崩御]]とそれに伴う輔仁親王への[[皇位継承]]を期待して呪詛を行ったものの、一向にその気配を見せないために千手丸に命じて天皇の暗殺を謀ろうとしたと自白をした。そのため、6日には仁寛が[[検非違使]]に捕縛されて訊問を受けた。だが、仁寛は無実を主張した。その後、白河法皇は[[摂政]][[藤原忠実]]をはじめ、[[源雅実]]・[[藤原宗忠]]・[[藤原為房]]ら有力[[公卿]]を集めて対応したものの、[[左大臣]][[源俊房]]とその子供達は招集されなかった。実は仁寛・勝覚兄弟は俊房の息子であったためである。検非違使による仁寛や関係者に対する訊問や公卿による事件への対応は数日にわたって続けられたが、10月22日になって千手丸は[[佐渡国]]、仁寛は[[伊豆国]]に流罪とする判決が下されたものの、左大臣源俊房や勝覚らは暗殺計画とは無関係であり罰するべきではないとする藤原為房の進言によって連座を免れた(『百錬抄』)。だが、俊房は政治的権力を失って失脚し、子供達とともに謹慎を余儀なくされ(翌永久2年11月8日に法皇の命令によって俊房は出仕を再開する)、輔仁親王は無実の訴えの意味も含めて自邸に閉門・蟄居した。
 
永久元年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]](1113年[[10月12日]])に鳥羽天皇が病気になり、祖父である[[白河天皇|白河法皇]]の命令で各地の寺社で祈祷を行わせ、[[非常赦]]などの措置を執り行った。ところが、[[10月3日 (旧暦)|10月3日]](『[[殿暦]]』、『[[百錬抄]]』では4日)に白河法皇の3女で鳥羽天皇の[[准母]]である[[令子内親王]]の[[御所]]に落書が投げ込まれた。そこには「主上を犯し奉らんと構ふる人あり」と書かれ、続いて[[醍醐寺]][[座主]][[勝覚]]に仕える千手丸という[[稚児]](童子)が鳥羽天皇の暗殺の準備をしているとの密告が書かれていた。驚いた内親王は父・法皇に落書を見せた。白河法皇は直ちに[[検非違使]]を派遣して千手丸を捕縛して厳しい尋問を行った。千手丸は自分に天皇暗殺を命じたのは勝覚の実兄で法皇の異母弟・三宮([[輔仁親王]])の護持僧を務めていた[[仁寛]]([[三宝院]][[阿闍梨]])であったこと、仁寛が9月の天皇の病気の際に天皇の[[崩御]]とそれに伴う輔仁親王への[[皇位継承]]を期待して呪詛を行ったものの、一向にその気配を見せないために千手丸に命じて天皇の暗殺を謀ろうとした自白を供述した。そのため、6日には仁寛が[[検非違使]]に捕縛されて訊問を受けた。だが、仁寛は無実を主張した。その後、白河法皇は[[摂政]][[藤原忠実]]をはじめ、[[源雅実]]・[[藤原宗忠]]・[[藤原為房]]ら有力[[公卿]]を集めて対応したものの、[[左大臣]][[源俊房]]とその子供達は招集されなかった。実は仁寛・勝覚兄弟は俊房の息子であったためである。検非違使による仁寛や関係者に対する訊問や公卿による事件への対応は数日にわたって続けられたが、10月22日になって千手丸は[[佐渡国]]、仁寛は[[伊豆国]]に流罪とする判決が下されたものの、左大臣源俊房や勝覚らは暗殺計画とは無関係であり罰するべきではないとする藤原為房の進言によって連座を免れた(『百錬抄』)。だが、俊房は政治的権力を失って失脚し、子供達とともに謹慎を余儀なくされ(翌永久2年11月8日に法皇の命令によって俊房は出仕を再開する)、輔仁親王は無実の訴えの意味も含めて自邸に閉門・蟄居した。
 
白河法皇は[[摂政]][[藤原忠実]]をはじめ、[[源雅実]]・[[藤原宗忠]]・[[藤原為房]]ら有力[[公卿]]を集めて審議したが、[[左大臣]][[源俊房]]とその子供達は招集されなかった。実は仁寛・勝覚兄弟は源俊房の息子であったためである。検非違使による仁寛や関係者に対する訊問や公卿による事件への対応は数日にわたって続けられた。10月22日、千手丸は[[佐渡国]]、仁寛は[[伊豆国]]に流罪とする判決が下された。一方で実父である源俊房や勝覚らは、暗殺計画とは無関係であり罰するべきではないとする藤原為房の進言によって連座を免れた(『百錬抄』)。だが、俊房は政治的権力を失って失脚し、子供達とともに謹慎を余儀なくされ(翌永久2年11月8日に法皇の命令によって俊房は出仕を再開する)、輔仁親王は自身の無実の訴えの意味も含めて、自邸に閉門・蟄居した。
 
== 背景 ==