「米長邦雄」の版間の差分

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[[1998年]](平成10年)、[[第56期順位戦]]で4勝5敗の成績ながらリーグ表順位の差で、26年連続で在籍したA級からの降級が決まる。B級1組で指す道を選択せず[[順位戦#フリークラス宣言|フリークラス宣言]]をして順位戦から撤退し、名人挑戦の可能性を残す道を自ら断った。
 
[[2003年]](平成15年)4月、記者会見を開き、勝ち残った棋戦のみ指し続け、すべて負けた場合に引退届を提出することを予告する異例の表明を行った<ref name="連盟コラム_20161212">[https://www.shogi.or.jp/column/2016/12/1212.html 日本将棋連盟 将棋コラム「【今日は何の日】12月12日は米長永世棋聖最後の公式対局。相手は現王将の郷田真隆九段」] 夏芽 2016年12月12日 </ref><ref name="NHKTEXT_20130429">[http://textview.jp/post/hobby/3486 『NHK将棋講座』2013年4月号「佐藤康光の和服姿に刺激を受けた米長邦雄」] NHK テキストビュー 2013年4月29日 </ref>。当時59歳(実際の引退時は60歳)の米長の立場では規定により65歳が定年であったが、これを約5年早めるものであった。各棋戦の予選で敗退を重ねていく中で第53期王将戦は、予選で2人のA級棋士・[[三浦弘行]]、[[藤井猛]]を破り、60歳で挑戦者決定リーグの参加を果たす<ref name="連盟コラム_20161212" /><ref>60歳超えの王将戦挑戦者決定リーグ参加は、大山康晴に次いで史上2人目であった。</ref>。しかし、初戦から3連敗を喫して挑戦権争いから脱落することが確定し、4回戦の前日に改めてリーグ終了後に引退届を提出することを宣言した<ref name="NHKTEXT_20130429"/>。翌日の対局は、[[佐藤康光]]棋聖が相手であったが、佐藤は米長に敬意を払い和服(羽織袴)を着用して下座に着いていた(本来はタイトル保持者の佐藤が上座)。朝、対局室でこれを知ったスーツ姿の米長は、すぐに自身の事務所に連絡して和服を取り寄せ、午後から和服姿で対局した<ref name="NHKTEXT_20130429"/>。第5局は[[森内俊之]]竜王であり、森内もまた先に対局室入りすると和服を着用して下座に着いていた<ref name="NHKTEXT_20130506">[http://textview.jp/post/hobby/3495 『NHK将棋講座』2013年4月号「米長邦雄 脳裏に焼きつく一局」] NHK テキストビュー 2013年5月6日 </ref>。事前に察していた米長も今回は最初から和服を用意しており、森内に上座に座るよう勧めたが、森内の意思が堅いと知ると諦め、その代わりに'''玉'''将を自玉として森内に敬意を表した(本来は上座が王将、下座が玉将)<ref name="NHKTEXT_20130506" />。12月12日、最後の公式対局となった第6局の相手は[[郷田真隆]]であり、同じく共に和服での対局となった<ref name="連盟コラム_20161212" /><ref name="NHKTEXT_20130513">[http://textview.jp/post/hobby/3503 『NHK将棋講座』2013年4月号「米長邦雄 現役最後の一局の情景」] NHK テキストビュー 2013年5月13日 </ref>。当日は、羽生名人と森内竜王の事前の提案で、特別対局室で行うこととなり、後手番の米長が力戦形に持ち込む難解な終盤戦となったが、郷田が勝利した。感想戦後には花束が送られるなどし、最後に報道陣に「これから新しい人生のスタートです。応援してください」と言って対局室を去った<ref name="NHKTEXT_20130513" />。
 
予告通り12月17日に引退届を提出し、約40年の棋士生活を終えた。ただし、連盟の専務理事として運営には関与を続け、2005年には連盟会長に着任して死去する2013年まで同職を務めた。