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== 経歴 ==
父・信業とに[[後白河天皇|後白河法皇]]に[[院近臣]]として仕え、[[治承]]2年([[1178年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]されるが、法皇と[[平清盛]]の対立による[[治承三年の政変]]で[[解官]]される。[[寿永]]2年([[1183年]])の法皇と[[源義仲]]の対立による[[法住寺合戦]]では、六条西洞院の業忠の邸が法皇の[[仙洞御所|御所]]とされた。『[[平家物語]]』「河原合戦」の章段では、義仲によって法皇が幽閉された御所内から土塀に登って様子をうかがい、[[源義経]]率いる鎌倉源氏軍が来たことに喜び、転倒しながらも法皇に鎌倉軍の到着を伝えた場面が描かれている。
 
長きに亘り[[馬寮|左馬権頭]]の[[官職]]にあったが、[[文治]]元年([[1185年]])11月に義経謀反への荷担を理由として、[[源頼朝]]の要請により左馬権頭を解官された。文治4年([[1188年]])1月24日大膳大夫に任ぜられる。[[建久]]3年([[1192年]])3月[[北面武士|上北面]]であったが、後白河院[[崩御]]にあたり入棺役を務めた。