「四天王寺」の版間の差分
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山号の「荒陵山」から、かつてこの近くに大規模な[[古墳]]があり、四天王寺を造営する際それを壊したのではないかという説もある。四天王寺の庭園の石橋には古墳の[[石棺]]が利用されていることはその傍証とされている。例えば、[[大阪市]][[住吉区]]にある[[帝塚山古墳]]は、「大帝塚山」「小帝塚山」地元で称されているものがあり、現在一般的に帝塚山古墳と呼ばれているのは「大帝塚山」である。その大帝塚山は、別名荒陵とも呼ばれていた。なお、小帝塚山は、住吉中学の敷地内にあったと言われている。また、[[東高津宮]]は、[[仁徳天皇]]の皇居であるとする[[明治]]31年(1898年)の大阪府の調査報告などがあることから、歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説もある。
現在の大阪市[[東淀川区]]豊里の東部は、もとは[[西成郡]]天王寺庄村といった。四天王寺の建立予定地であったという伝承による。なお、[[8世紀]]の西成郡と隣接する[[東生郡]]の[[郡領]]は、[[吉士]]系で占められていたとする推察がある<ref>[[加藤謙吉]]『吉士と西漢氏』白水社 2001年 p32 原典は[[正倉院文書]]</ref>。
20世紀末から「日本仏教興隆の祖としての『聖徳太子』は虚構であった」とする言説が盛んになり、『書紀』の記述に疑問を呈する向きもある。<ref>『日本書紀』に伝えるような従来の聖徳太子観を否定した論書としては、[[大山誠一]]『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館 歴史文化ライブラリー、1999年)、[[谷沢永一]]『聖徳太子はいなかった』([[新潮社]] [[新潮新書]]、2004年)などの新説があるが、根拠が弱いとされる。</ref> また、上記の『書紀』批判の記述とは別に、
*田村圓澄『飛鳥・白鳳仏教史(上)』、吉川弘文館、1994年、pp238 - 246
</ref>。があり、[[加藤謙吉]]は孝徳朝以降の造営事業は「少なくとも四天王寺を豪族の私寺的なものとみることはできない。<ref>引用:[[加藤謙吉]]『吉士と西漢氏』白水社 2001年 p94</ref>」とする。
=== 四天王寺七宮 ===
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