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== 概要 ==
[[ファイル:Tutuij3.jpg|thumb|left|250px|筒井城跡地/現在は畑地になっている]]
筒井城は[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄橿原線|橿原線]][[筒井駅 (奈良県)|筒井駅]]より東北一帯にあり、おおよそ南北400m、東西500mあり、[[平地]]部に築かれた中世の城としては比較的規模が大きく、筒井の集落を囲む形で筒井城があった。現在の筒井城跡は、[[宅地]]、[[畑地]]、[[水田]]となっているが、内[[曲輪]]と外曲輪を巡った[[堀]]跡が点在している。その堀に囲まれた城内には筒井氏とその家臣団の[[屋敷]]があった。また『筒井氏と筒井城』によると、筒井には[[市場]]があった確認されており、筒井城の「市場も外堀内部にも設けられていた可能性が高いと思われる」と記載し指摘されている<ref>『筒井氏と筒井城』</ref>。また筒井集落は、様々な場所で道が折れ曲がり直進できない構造になっている。これらの道や地割は筒井城が築かれた当時の様子をうかがい知る事が出来る。
 
== 沿革 ==
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畠山義就軍は、反対勢力が籠城していた河内[[犬田城]]を文明15年([[1483年]])8月13日より攻城した。この時「越智党」に属していた古市氏は武名を上げ、同年9月27日に犬田城は落城した。古市軍は、2日後の29日に筒井城も攻城した。この動きに即応して十市、箸尾両軍は援護に回るべく筒井城の南側にある結崎に陣取った。古市軍は調略を巡らし、箸尾軍は古市軍へ寝返り、筒井城は落城した。
 
筒井軍は東山内へ逃走し、十市軍は藤井方面に逃走した。この戦いで周辺の村は焼かれてしまった。{{-}}
=== 第五次筒井城の戦い ===
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[[ファイル:Tutuijk5.jpg|thumb|筒井順慶の五輪塔覆堂/重要文化財指定]]
その後大和は二転三転す混乱した状態となる。越智、古市氏の間でも和議が成立し、筒井氏は大和の支配権をるようになるが、突如[[享禄]]元年([[1528年]])に[[柳本賢治]]が乱入してくると頓挫してしまう。賢治が[[中嶋の戦い]]で[[暗殺]]されると[[木沢長政]]が大和北半国を治める事になったが、長政も[[太平寺の戦い]]で討死にすると、今度は[[十市遠忠]]が台頭してきて[[筒井順昭]]は十市遠忠と大和の支配をめぐって競い合った。[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に遠忠も死亡すると、大和の制圧に成功した。
 
しかし、大和を掌握した順昭であったが、同年に死去してしまう。家督は子の[[筒井順慶|順慶]]に移ったがまだ幼少であったため、[[松永久秀]]が[[永禄]]2年([[1559年]])に大和へ侵攻し、筒井城は永禄8年([[1565年]])11月に久秀から攻撃をうけ、炎上してしまった。その後[[東大寺大仏殿の戦い]]があり翌永禄9年([[1566年]])には取り戻すが、永禄11年([[1568年]])10月に再び松永軍に占領されてしまう。
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== 城郭 ==
[[ファイル:Tutuij10.jpg|thumb|300px|筒井城の推定城郭部分/ {{国土航空写真}}]]
筒井城は、筒井集落全体を囲む外堀とその内側にある内堀から構成されており、内堀で囲まれた部分が「シロ畠」と言われ、周囲と比べて一段と高くなった畠地となっている。この部分がちょうど筒井城の中心的な場所であったと思われている。堀の内側には[[土塁]]があり敵の侵入を防いだ。筒井城は大和郡山市の[[教育委員会]]が過去6回以上の発掘調査を実施、土師皿が一括陶器された状態で検出され、西側では幅12m以上、深さ2m以上の[[堀]]が検出されている。この堀は16世紀中ごろで石垣を持たない城としては最大級と考えられている。更に城の中心部からは7世紀はじめの大きな建物跡や4世紀の大きな溝が見つかっており、古くから重要な場所であった。また発掘調査から[[鉄砲]]玉が堀斜面より出土した。大きさは1.1cm、重さは7.68gの鉛製で、[[1559年]](永禄2年)の筒井城落城の際に使われたとみられている。『筒井氏と筒井城』では「松永久秀は筒井城を最新兵器を用いて攻めたかもしれない」と解説し指摘されている<ref>『筒井氏と筒井城』</ref>。{{-}}
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|[[ファイル:Sugataniji3.jpg|thumb|推定土塁跡/菅田比売神社の境内にある]]
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現在筒井城の中心部は[[蓮根]]畑になっている。蓮根畑は「シロ畠」(田)をぐるりと取り巻いており、蓮根畑は筒井城の堀跡と推定されている。平城が城として使用されなくなって、耕地に使用する場合、本丸の周囲は低くなっているので[[田]]として利用しやすい。筒井城の場合も[[昭和]]初期以前は田であったようで、これが蓮根畑に変化したと言われている。この「シロ畠」には現在民家は建っていない。地元の人からは「筒井の殿様が住んでいたので遠慮して家を建てていない」と伝承されている。『筒井氏と筒井城』によると、これは筒井城に限った事ではなく、中心部には民家は建てないという風習が広く見られる、と解説されている<ref>『筒井氏と筒井城』</ref>。{{-}}
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筒井集落の北側、南東側には現在でも外堀跡があり、また菅田比売神社の東側には幅約2mの内堀跡の[[遺構]]が良好に残っている。また菅田比売神社の境内の南側には、若干高くなった部分があり土塁跡が指摘されている。この菅田比売神社は筒井城があった頃から、位置を違えず鎮座していると考えられている。
=== 北市場、南市場 ===
城内には[[曲輪]]だけが存在したわけではない。「シロ畠」の東側一帯に北市場、須浜池の南側に南市場という字名が残されている。これは城内を縦貫している吉野街道沿いに存在していたと考えられている。このような[[街道]]と[[市場]]を城内に取り込むという事は、それだけで規模が大きくなることを意味する。普通、街道は誰に対しても通行できるが、城内に街道がはしっていると通行人に対して何がしかの規制が加わる事に繋がると考えられている。また市場やその住宅が城内にある事で、[[領主]]の保護が受けられるが、反面敵からの攻撃を受けたさい、防備の薄い市場から攻撃されやすい。『経覚私要抄』によると第三次筒井城の戦いで筒井城が炎上したさいに、古市氏により市場から放火されたようである(『経覚私要抄』)。{{-}}
=== 鬼門 ===
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#元々の自然地形に沿って造られた
#[[風水]]による[[鬼門]]落しに相当する
が考えられるが、これらの可能性について検討している<ref>『筒井城総合調査報告書』</ref>
 
そもそも鬼門とは、[[中国]]で発展した地相術で、[[遣唐使]]によって日本に伝えられたが9世紀末に遣唐使が廃止になってからは、日本独自に変化し[[陰陽道]](風水)の一つ、鬼門を嫌いそれを除ける[[風習]]があったと思われている。戦国時代の風水とは[[武士]]のものであって、陣取りや合戦の日時を風水によって決められる事もあった。
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鬼門除けのひとつが「鬼門落し」で、建物や敷地の北東隅を欠くことで、北東隅を造らないようにしたもので、この「鬼門落し」で有名な施設は[[京都御所]]である。ほぼ[[正方形]]になっている禁裏であるが北東隅の塀だけが欠けている。また近世城郭では[[鹿児島城]]、[[日出城]]の鬼門櫓、[[江戸城]]の[[寛永寺]]や筋違門、[[彦根城]]の中堀における多折れ構造など中世の城郭でも数多くの「鬼門落し」が見られる。しかし、これらの例も風水のみではなく防備施設と兼ね備えている城々もあった。
 
そこで筒井城だが、五折れ構造になっているが、北東部には[[虎口]]が無く、隣接する東口、北口の両方の虎口にも横矢は掛からない為、防御のためではないと思われる。また、この部分には河川の氾濫を城内に及ぶのを防ぐため土塁を設けたとしても、多折れにする必要が無く地形に沿って丸くするか、あるいは直線に築くのが自然である。従って『筒井城総合調査報告書』では、防御や地形ではなく「風水のみに関わるもの」と結論づけられている<ref>『筒井城総合調査報告書』</ref>。{{-}}
 
== 城跡へのアクセス ==