「明応地震」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
修正
1行目:
{{地震
|shindoarea=東海地方・甲信など
|name=明応地震
|date=ユリウス暦1498年9月11日
|date=室町時代後期
|center=東海道沖
|scale=8.6
|shindo=6
|tsunami=熊野灘・遠州灘・伊豆半島
|tsunami=36.4 [[メートル|m]](平目平)
|area=東海地方・甲信など}}
|area=日本(特に東海地方など)}}[[ファイル:1498 Meio earthquake intensity.png|thumb|right|240px|明応地震の震度分布<ref name="Usami-kaihou">{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou35/05_17.pdf 宇佐美龍夫(1986)]}} 宇佐美龍夫(1986): 東海沖四大地震の震度分布(明応・宝永・安政東海・東南海地震), 地震予知連絡会報, '''35''', 343-351.</ref><ref name="soran">宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref>]]
'''明応地震'''(めいおうじしん)は、[[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期)に発生した[[地震]]である。[[南海トラフ]]沿いの[[巨大地震]]([[南海トラフ巨大地震]])と推定されている。
 
記録にある被害分布が[[安政東海地震]]に類似しており<ref name="Usami-kaihou" />、震源域は[[東海道]]沖と思われるものであった<ref name="Koyama">{{PDFlink|[http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/etc/onlinepaper/koyama2008a.pdf 里村幹夫 編、小山真人、林愛明 ほか共著:(2008) 東海地震はどんな地震か?]}}」, 『地震防災』 学術図書出版, 1498年明応東海地震 -津波で外海とつながった浜名湖- ISBN 978-4-87361-817-3</ref>。一方で、[[四国]]でも一部大地震があったとする記録がされ、また発掘調査から同時期の[[南海地震|南海道沖の地震]]の存在の可能性が唱えられている。
 
== 東海道沖地震の記録 ==
124 ⟶ 125行目:
 
== 南海道沖地震との連動の可能性 ==
明応地震の歴史記録は、東海道沿いのみで、ほぼ同時期に連動する可能性の高いと考えられている南海道沖の地震の記録を欠いたものとなっている。この時期は[[応仁の乱]]以来戦乱が続いた時代であったため詳細な記録が残される様な状況に無かった可能性あるとされる<ref>{{PDFlink|[http://www.histeq.jp/kaishi_20/13-Ando2.pdf 安藤雅孝(2005)]}} 安藤雅孝 「1605年慶長地震のメカニズム」『歴史地震』第20号、2005年</ref>。
 
1988年、[[高知県]][[中村市]](現・[[四万十市]])[[四万十川]]支流の中筋川岸辺にあるアゾノ遺跡から[[15世紀]]末頃の噴砂が上昇した痕跡が発見され、1993年にはアゾノ遺跡に近接する船戸遺跡で地割れに石を並べた痕跡が発見された。アゾノ遺跡では噴砂痕より後の年代に人間の生活の痕跡が見られない。徳島県[[板野町]]の[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]][[沖積低地]]では[[14世紀]]後半から[[16世紀]]初頭までに存続した集落跡の調査で、[[液状化現象]]による噴砂の痕跡が発見された<ref>寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年</ref>。加えて、愛媛県[[新居浜市]]の『黒島神社文書』に、「明応七年の震災に、大地大に潰崩し、島の六七歩は流失し、此度二三の遺島となれり、明応七年の震災に罹り、本殿拝殿共破壊し、住民四方に散乱し」という記述<ref group="注">地震から約400年後の明治20年(1887年)に書かれたものであり信憑性は低い。</ref>が存在することが判明し、[[四国]]における15世紀末頃の大地震と思われる記録・痕跡が相次いで発見されている<ref name="Sangawa2001">寒川旭 『地震 "なまず"の活動史』 大巧社、2001年</ref>。
 
また、明応7年6月11日未-申刻(1498年6月30日15時頃)には[[九州]]において家屋倒壊被害の記録があり、[[伊予国|伊予]]では陥没などの地変(上記の黒島の記録)を筆頭に[[日向灘地震 (1498年)|日向灘地震]]と推定される地震の記録があったが、同日には[[畿内]]でも地震の記録が残っているため、これらが同一地震ならば震源域の変更が必要ともされている<ref>[[国立天文台]] 『[[理科年表]]』 丸善、2012年版</ref>。紀ノ川河口付近の和田浦の津波は南海地震の可能性が高くあり、さらに『中国地震歴史資料彙編』には6月11日、[[呉州 (江蘇省)|蘇州]]で「各邑河渠池及井泉震蕩、高涌数尺、良久乃定」の記録があり<ref name="Utsu1988">宇津徳治(1988)、「[https://doi.org/10.4294/zisin1948.41.4_613 日本の地震に関連する中国の史料]」 『地震』第2輯, 1988年 41巻 pp.613-614.,{{DOI|10.4294/zisin1948.41.4_613}}</ref>、[[中国]]の[[江蘇省]]、[[浙江省]]では[[長江|揚子江]]を初めとする河の水面の震動、池や井戸の水面の変化が見られ、同様の現象は宝永地震や[[安政南海地震]]でも観測されていることから、上述の日向灘地震とされた地震は南海道沖の地震であった可能性も指摘されている<ref name="jiten" /><ref>都司嘉宣、上田和枝(1997): 明応(1498)南海地震の存在とその日付について, 地球惑星科学関連学会1997年合同大会講演予稿集, 169.</ref><ref>[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html 2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓]東京大学地震研究所</ref>。これが事実ならば、南海道沖の地震が東海道沖の地震に73日先行して発生したことになる。
 
一方で6月11日の地震を南海道沖の地震と断定するには津波伝播のシミュレーションなど更なる作業を必要とし、むしろ紀ノ川河口付近の津波を東海地震と同日の8月25日と考え、明応地震は宝永地震と同様に東海道沖の地震および南海道沖の地震が連動した可能性も検討すべきとされる<ref>石橋克彦(2002): フィリピン海スラブ沈み込みの境界条件としての東海・南海巨大地震 -史料地震学による概要-, 京都大学防災研究所研究集会13K-7, 報告書, 1-9.</ref>。また、都司(1997)が南海地震の根拠としている上海付近の[[セイシュ]]と推定される水面の震動は、南海道沖の地震に限らず安政南海地震の最大余震である[[豊予海峡地震]]の時も見られた<ref name="Utsu1988" />ことから、6月11日の地震はフィリピン海プレート内地震の可能性も考えられ、このプレート内地震が京都付近で強震動をもたらすことも充分有り得るとされる<ref name="Ishibashi2014">石橋克彦 『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会-』 岩波書店、2014年</ref>。