「文禄・慶長の役」の版間の差分

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|publisher = 文芸社
|isbn = 4835579348
}}</ref>、倭人([[投化倭人]])を巨済島や[[南海郡|南海県]]などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動はやめず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけなく[[奴婢]]の獲得を狙うようになり<ref name="katro" />、逃亡した[[禾尺]]・[[才人]]といった高麗賤民なども倭寇の側に合流した<ref name="2010son" /><ref group="注">これらは『[[高麗史]]』や『成宗実録』の記述に基づくものである。済州島の島民も倭寇に加わった(または倭寇と偽って海賊行為を働いていた)という説もあるが、韓国の研究者は高麗賤民や済州島海民の倭寇参加の事実に抵抗している。</ref>。[[1375年]]には家臣団を連れて投降した倭人の[[藤経光]]を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「{{lang|zh|倭寇猖獗}}」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。[[1380年]]には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が称賛される倭寇500隻<ref group="注">倭寇というものの、高麗賤民もしくは済州島海民を主体とする集団であったという説が有力。(前期)倭寇の8-9割は朝鮮人であったという朝鮮人説には異説もあるが、いずれにしても日本側から出征した勢力はわかっておらず、前者でなければ正体不明。</ref>の大襲撃があった<ref name="2010son" />。高麗は海賊取締を要請したが日本の[[北朝 (日本)|北朝]]に無視されたため、[[1389年]]、[[対馬]]に軍を差し向ける[[康応の外寇]]を行ったといわれている<ref group="注">ただし、これについて日本側には外寇があったという記録がない。</ref>。{{Main|倭寇|高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻|応永の外寇}}
 
高麗が滅び李氏朝鮮に代わると、太祖[[李成桂]]は日本に禁寇を要求した。[[1392年]]、南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの[[足利義満]]は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊に倭寇取締が命じられた。了俊はさらに[[守護大名]][[大内義弘]]に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。朝鮮側がいう[[1396年]]の壱岐・対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし[[1419年]]、[[太宗 (朝鮮王)|太宗上王]]と[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が[[応永の外寇]](己亥東征)の際に壱岐・対馬を慶尚道管轄下だと主張、保有船の3分の1以上を超える227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵略した<ref name=":0" />。ちょうどこの頃、明の[[永楽帝]]との関係がこじれていた時期で、将軍[[足利義持]]は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった<ref name="2010nakano" /><ref name="katro" />。幸い、この外寇は[[宗貞盛]]の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった<ref group="注">[[李承晩]]による[[竹島 (島根県)|竹島]]の占領を除く場合。</ref>。前期倭寇は、明の[[海禁]]、[[日明貿易|勘合貿易]]が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、[[1510年]]に[[恒居倭人]](朝鮮居留日本人)の反乱である[[三浦の乱]]という副産物を生んだ。