「アリー・ハーメネイー」の版間の差分

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=== 1990年代 ===
[[File:Hussein-Ali Montazeri And Ali Khamenei.jpg|thumb|240px|モンタゼリーとハーメネイー(1979年)]]
1989年6月にハーメネイーが最高指導者に選出されたのは、保守派の'''闘う法学者協会'''と改革派の[[ハーシェミー・ラフサンジャーニー]]の利害の一致のためだった。彼は候補者の中で最も若く、当時大統領だったラフサンジャーニーは、改革推進において彼の協力を当てにしていた。一方、保守派の宗教・政治指導者は、余り権威のないハーメネイーが自分達の影響下に入るものと予想していた。そもそも[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]の後継者として指名されていた[[ホセインアリー・モンタゼリー]]が失脚してから時間がなく、ハーメネイーの最高指導者への選出は既定の路線ではなかった。
 
モンタゼリー失脚時点では憲法に最高指導者は大アーヤトッラーでなければならないという規定が存在したが、モンタゼリーにかわる、大アーヤトッラーの地位をもつ好ましい後継者が見つからなかったため、ホメイニーは大アーヤトッラーでなくとも最高指導者の地位に就けるように憲法第109条の改正を行い、親体制派の聖職者たちに対して道を開いた。
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2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。
 
[[1994年]]、[[マルジャエ・タクリード|マルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)]]であるモハンマド・アリ・アラキーが死去したのち、[[専門家会議 (イラン)]]はハーメネイーを[[マルジャエ・タクリード]]として認めると宣言した。モハンマド・シーラーズィ、ホセイン・アリ・モンタゼリ、ハサン・タバータバーイー・ゴミーなど、何人かの反体制派およびイラン国外の大アーヤトッラー・アーヤトッラー達はハーメネイーを大アーヤトッラーとして認めることを拒否した。
 
[[1999年]]後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。