「アブド・アル=ハック2世」の版間の差分

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ワッタース家の{{仮リンク|アブー・ザカリヤー・ヤフヤーアル=ワッターシー|en|Abu Zakariya Yahya al-Wattasi|label=アブー・ザカリヤー}}はマリーン朝内の政敵に対抗するためにアブド・アル=ハック2世を支持し、王室と婚姻関係を築いた<ref name="nata"/>。アブド・アル=ハック2世統治下のモロッコは間も無く混乱に陥り<ref name="jul195196"/>、ワッタース家の影響力はマリーン朝のほぼ全域に及ぶようになる<ref name="nata"/>。
 
成長したアブド・アル=ハック2世は、[[1437年]]にアブー・ザカリヤーを宰相職から罷免する<ref>Julien 1931, p.196</ref>。同年にマリーン朝は[[タンジェ|タンジール]]を[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の攻撃から守り抜く。防衛の成功は国民の士気を上げ、守備隊を指揮していたアブー・ザカリヤーの威信を高めた<ref name="kisaichi116"/>。[[1438年]]に首都[[フェズ]]で[[イドリース朝]]の君主[[イドリース2世]]の墓がほんの偶然から「発見」され、墓廟は巡礼者にとって重要な目的地とされる<ref>Powers 2002, p.14</ref>
 
[[1458年]]にアル=ハック2世はワッタース家の人間を虐殺し、代わりに[[ユダヤ教徒]]を要職に就けた<ref name="kisaichi116"/>。アル=ハック2世が起用したユダヤ教徒たちはイスラム教徒を圧迫し、ユダヤ教徒にとって有利な裁定を下したため、マリーン朝内のイスラム教徒の不満は高まった<ref name="kisaichi116"/>。ユダヤ教徒の警察長官フサイン・アル=ヤフーディーが[[シャリーフ]](預言者[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]の子孫)の女性を尋問し、侮辱したことが引き金となってフェズ市民の不満が爆発した<ref>私市 1999, pp.116-117</ref>。1465年5月19日にアル=ハック2世は新フェズで市民に襲撃され、殺害された<ref>私市 1999, p.117</ref>。