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|説明 =
|王朝 = 永楽
|在位期間 = [[正平 (郭子和)|正平]]元年([[617年]]3)3)–正平2年([[618年]]7)7
|都城 = 楡林
|諱 = 郭子和
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|陵墓 =
|年号 = 正平
|注釈 = 元号に正平、一作は丑平
}}
'''郭 子和'''(かく しわ、生没年不詳)は、[[中国]]の[[隋]]末に割拠した群雄のひとり一人。[[唐]]に帰順して李姓を受け、夷国公に封ぜられた。[[本貫]][[同州]][[蒲城県]]
 
== 経歴生涯 ==
隋の[[大業]]末年、左翊衛となり、罪によって[[楡林市|楡林]]に流された。ときに楡林郡が飢饉におちいると、子和と十八人の決死の士が郡丞の王才を捕らえた。王才の民を虐げた罪を数えて、これを斬り、官倉を開いて窮乏している人々に振る舞った。子和は永楽王を自称し、[[正平 (郭子和)|正平]]と元号を建て、子和の父を太公とし、弟の郭子政を尚書令とし、郭子端・郭子升を左右僕射とした。騎兵二千を有して、南は[[梁師都]]と連係し、北は[[突厥]]に従属して、子を人質に送った。[[始畢可汗]]は子和を平楊天子に冊立したが、固辞して受けなかった。[[役所]]を設けて屋利設といった。
 
[[618年]]、唐に帰順して[[楡林郡]]太守に任ぜられた。まもなく[[霊州]]総管となり、金河郡公に封ぜられた。[[619年]]、郕国公に徙封された。梁師都の寧朔城を襲撃して勝利した。また突厥の動静をうかがって、ひそかに使者を立てて唐に報告していたが、その使者が突厥に捕らえられてしまった。[[処羅可汗]]は怒って、弟の郭子升を捕らえたので、[[621年]]、子和は危険を恐れて、部衆を挙げて南遷し、[[延州 (陝西省)|延州]]故城に入った。[[622年]]、[[劉黒闥]]に対する討伐に従って、功績により李姓を賜り、右武衛将軍に任ぜられた。[[627年]]、実封三百戸を受けた。[[637年]]、[[婺州]][[刺史]]に任ぜられ、夷国公に改封された。[[656年]]、[[黔州]][[都督]]に転じた。老年のため辞職を願い出て許され、金紫光禄大夫の位を加えられた。
 
『[[旧唐書]]』李子和伝は、子和の没年を「[[麟徳]]九年」と伝えるが、麟徳年間は2年までしかなく、不詳。