「赤穂市」の版間の差分

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== 概要 ==
のちに[[忠臣蔵]]として語り伝えられることとなる[[赤穂事件]]ゆかりの地である。毎年[[12月14日]]{{#tag:ref|赤穂事件発生は旧暦の[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]で太陽暦では1月下旬になる。|group="脚注"}}には赤穂市最大の催しとして[[赤穂義士祭]]が行われている。古くから[[塩田]]([[塩田|揚浜式塩田]]・[[浜式塩田]]・[[流下式塩田]])が栄え、生産されている塩は「赤穂の塩」として全国に流通している{{#tag:ref|最近は日本近海での塩の生産が困難となったため、生産元のひとつでは[[オーストラリア]]・[[シャーク湾]]の海水をもとに作られた塩を輸入し日本国内で生産された[[にがり]]を合わせる形で塩を生産している<ref>[https://www.amashio.co.jp/about/kodawari/material/ https://www.amashio.co.jp/about/kodawari/material/ 「赤穂の天塩」のこだわり] 株式会社天塩 2019.1.5 05:40 (UTC) 閲覧</ref>。|group="脚注"}}。
 
市の中心部を流れる、[[千種川]]([[名水百選]])の豊富な水系に恵まれた赤穂市は[[水道]]料金([[簡易水道]]を除く家庭用水道料金)が国内で一番安い<ref>10立方メートル使用時の月額料金は367円で、国内最高値の[[群馬県]][[長野原町]]の3510円と比べると約10倍の格差がある。2014年(平成26年)日本水道協会調べ。</ref>。402[[元和 (日本)|元和]]2(1616年)に敷設されたとされ、現在でも市内の随所にその遺構が残る赤穂上水<ref>{{Cite journal |和書|author =神吉和夫|author2=箟源亮|author3=多渕敏樹|author4=中西英之|author5=広山堯道|title =赤穗水道の沿革と現状|date =1981|publisher =土木学会|journal =日本土木史研究発表会論文集|volume =1|doi=10.11532/journalhs1981.1.78|pages =78-83|ref = }}</ref>は、[[神田上水]](東京都)[[福山旧水道|福山上水]](広島県)と並んで日本三大上水道(江戸三大上水道)のひとつに数えられる<ref>[http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/column/jousuido.html ◆コラム◆ 赤穂上水道について] 赤穂市教育委員会</ref>。
 
== 地理 ==
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[[ファイル:Ako city center area Aerial photograph.1980.jpg|thumb|300px|赤穂市中心部周辺の空中写真。1980年撮影の21枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]]
 
[[播磨灘]]に注ぐ[[千種川]]([[名水百選]])の河口に広がる平野地に、[[赤穂城]]を中心とした[[城下町]]の名残が残る市街地と、古い[[港町]]の町並みが美しく、[[牡蠣]]の養殖が盛んな[[坂越]]([[都市景観100選]]、[[日本遺産]])、[[瀬戸内海国立公園]]で[[赤穂温泉]]のある[[御崎]]などで知られる。<br />赤穂市は、恐竜が生息していた約8200万年前([[白亜紀]]後期)に火山が噴火してできた巨大な[[赤穂カルデラ]]([[赤穂コールドロン]])の中に市域がスッポリ入る珍しい特徴の地形にあり、その規模は南北約16キロ・東西約21キロにも及び、日本国内では[[阿蘇カルデラ]](約25km)、[[姶良カルデラ]](約20km)に匹敵する。カルデラに特徴的な地層で、割れ目にマグマが入り込んで出来る「平行岩脈群」が[[赤穂御崎]]を中心とする海岸域に多く露出しており、現在でも見ることが出来る<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201608/0009366433.shtml 赤穂市中心に巨大カルデラ 8200万年前に形成]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201608/0009366537.shtml 巨大カルデラ兵庫・赤穂に 阿蘇や姶良に匹敵、産総研]</ref><ref>[http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2016/pr20160808/pr20160808.html 赤穂市は恐竜時代のカルデラの中にできた町だったことが判明]</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080800668&g=soc 兵庫に巨大カルデラ=白亜紀後期に噴火の跡-産総研]</ref>。
赤穂市は、恐竜が生息していた約8200万年前([[白亜紀]]後期)に火山が噴火してできた巨大な[[赤穂カルデラ]]([[赤穂コールドロン]])の中に市域がスッポリ入る珍しい特徴の地形にあり、その規模は南北約16キロ・東西約21キロにも及び、日本国内では[[阿蘇カルデラ]](約25km)、[[姶良カルデラ]](約20km)に匹敵する。カルデラに特徴的な地層で、割れ目にマグマが入り込んで出来る「平行岩脈群」が[[赤穂御崎]]を中心とする海岸域に多く露出しており、現在でも見ることが出来る<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201608/0009366433.shtml 赤穂市中心に巨大カルデラ 8200万年前に形成]</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/zenkoku/compact/201608/0009366537.shtml 巨大カルデラ兵庫・赤穂に 阿蘇や姶良に匹敵、産総研]</ref><ref>[http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2016/pr20160808/pr20160808.html 赤穂市は恐竜時代のカルデラの中にできた町だったことが判明]</ref><ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2016080800668&g=soc 兵庫に巨大カルデラ=白亜紀後期に噴火の跡-産総研]</ref>。
 
=== 気候 ===
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== 歴史 ==
赤穂市域では[[旧石器時代]]の遺跡・遺物は確認されておらず、赤穂市で人間の活動が確認できるのは[[縄文時代]]早期(西有年・馬路池遺跡)以降のことである。<ref name=":0">{{Cite book|title=『赤穂市史』第一巻|date=|year=1981年|publisher=赤穂市}}</ref><ref>{{Cite book|title=『赤穂市史』第四巻|date=|year=1984|publisher=赤穂市}}</ref>
赤穂市域の全部または一部はかつて、[[吉備国]]に属した。[[吉備国]]は[[弥生時代]]・[[古墳時代]]に[[筑紫国|筑紫]]・[[出雲国|出雲]]・[[ヤマト王権|ヤマト]]・[[毛野氏|毛野]]などと並んで日本列島を代表する政権として繁栄し、ヤマトと連合して列島の統一・治世に貢献したが、吉備の興隆に脅威を感じたヤマトに勢力を削減され、[[備前国|備前]]・[[備中国|備中]]・[[備後国|備後]]・[[美作国|美作]]に分割され、さらに赤穂市域は[[播磨国]]へと移されることになったという。これ以後、経済・文化の面で結びつきの強い旧吉備地域の政治的な統一は現在に至るまで達成されていない。
 
縄文時代後期以降には市北部の有年地区を中心に集落の増加がみられ、[[弥生時代]]中期に入ると大規模な集落(東有年・沖田遺跡、有年原・田中遺跡)が出現する。
* 1951年(昭和26年)9月1日 - [[赤穂郡]][[赤穂町 (兵庫県)|赤穂町]]・[[坂越町]]・[[高雄村 (兵庫県)|高雄村]]が合併して発足。
 
* 1955年(昭和30年)4月1日 - 赤穂郡[[有年村]]を編入。
弥生時代から[[古墳時代]]には、有年原・田中遺跡墳丘墓群(弥生時代後期)や有年牟礼・山田遺跡[[方形周溝墓]]群(弥生時代終末期)、放亀山1号墳(古墳時代前期・[[前方後円墳]])、蟻無山1号墳(古墳時代中期・[[帆立貝形古墳]])など、大型の首長墓・首長墳が複数築かれているほか、[[飛鳥時代]]から平安時代にかけても市北部の有年地区に遺跡が集中している。
* 1963年(昭和38年)9月1日 - [[岡山県]][[和気郡]][[日生町]]の一部(寺山を除く[[大字]]福浦)を編入。
 
ちなみに福浦地区を除く市域をはじめとする旧赤穂郡(現在の赤穂市・[[相生市]]・[[上郡町]]域)は古代の[[令制国]]における[[播磨国]]に属したことが[[平城宮]]・京跡出土[[木簡]]から判明している<ref>{{Cite web|title=木簡庫 奈良文化財研究所:詳細|url=https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AACVS160001|website=mokkanko.nabunken.go.jp|accessdate=2019-07-27}}</ref>。また、『[[和名類聚抄]]』では播磨国[[赤穂郡]]の項に八つの[[郷]]が挙げられており、そのうち「坂越」は赤穂市[[坂越]]、「周勢須世」は赤穂市周世、「大原」は赤穂市西有年もしくは有年原に比定されている<ref name=":0" />。
 
[[奈良時代]]から[[平安時代]]になると[[千種川]]からの土砂の堆積により千種川河口部(現在の市街地付近)の陸地化が進行し、徐々に集落が営まれるようになり、[[東大寺]]などが管理する[[荘園 (日本)|荘園]](石塩生荘)も成立した。<ref name=":0" />
 
[[中世]](15世紀中頃)には加里屋(現在の赤穂市加里屋)に「古城」とよばれる砦が築かれるなど、千種川河口部の集落の拡大が進む。このころ赤穂郡は[[赤松氏]]の支配下にあったと考えられている。<ref name=":1">{{Cite book|title=『赤穂市史』第二巻|date=|year=1983|publisher=赤穂市}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/history.html|title=国史跡赤穂城跡(兵庫県赤穂市) 公式Webサイト|accessdate=20190728|publisher=赤穂市教育委員会}}</ref>
 
[[慶長]]年間には、赤穂は池田長政の領地となり「掻上城」が築かれる。その後、垂水半左衛門勝重による郡代支配などを経て、[[池田政綱]]が[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)に入封し、[[天正]]年間に一時的に行われた[[生駒親正]]の赤穂支配以来、改めて[[赤穂藩]]が成立した。ちなみに福浦地区については江戸時代を通じて[[岡山藩]]領となっている。<ref name=":1" /><ref name=":2" />
 
その後、[[正保]]2年(1645年)に[[池田氏|池田家]]の改易に伴って[[浅野氏|浅野家]]が入封する。浅野家も[[赤穂事件]]によって[[元禄]]14年(1701年)に改易された。その後[[永井氏|永井家]]が一時的に入封するもすぐに転封となり、[[宝永]]3(1706)年に[[森氏|森家]]が入封し、明治4年(1871年)廃藩置県まで赤穂藩主となった。<ref name=":1" /><ref name=":2" />
 
廃藩置県後、赤穂藩領であった市域の大部分は[[赤穂藩|赤穂県]]、岡山藩領であった福浦地区は[[岡山県]]となった。赤穂県は[[飾磨県|姫路県]]・[[飾磨県]]を経て[[兵庫県]]に編入された。<ref name=":1" /><ref name=":2" />
 
町村制施行後、現在の赤穂市域内には兵庫県赤穂郡[[赤穂町 (兵庫県)|赤穂町]]・[[塩屋村 (兵庫県)|塩屋村]]・[[尾崎村 (兵庫県赤穂郡)|尾崎村]]・[[新浜村 (兵庫県)|新浜村]]・[[坂越町|坂越村]](のちに坂越町)・[[高雄村 (兵庫県)|高雄村]]・[[有年村]]・岡山県[[和気郡]][[福河村]](のちに[[日生町]]に編入)が存在した。<ref>{{Cite book|title=『赤穂市史』第三巻|date=|year=1985|publisher=赤穂市}}</ref>
 
* 1951年(昭和26年)9月1日 - [[赤穂郡]][[赤穂町 (兵庫県)|赤穂町]][[坂越町]][[高雄村 (兵庫県)|高雄村]]が合併して発足。
* 1955年(昭和30年)4月1日 - 赤穂郡[[有年村]]を編入。
* 1963年(昭和38年)9月1日 - [[岡山県]][[和気郡]][[日生町]]の一部(寺山を除く[[大字]]福浦)を編入。
* 赤穂郡[[上郡町]]との間で合併協議を行っていたが、2007年(平成19年)9月に行われた住民投票で合併反対票が賛成票を大きく上回った。これを受けて、上郡町との合併は断念された。
 
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* かぶ〜んうね – JR有年駅側から赤穂ふれあいの森に向かう途中にあるかぶと虫の観察施設。毎夏、期間限定でオープンする。かぶと虫の販売も有る。
* 有年原・田中遺跡公園
* 赤穂市立有年考古館 [http://www.geocitiesako-hyg.ed.jp/unekoukokanbunkazai/unekokokan/]
* 東有年・沖田遺跡公園