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裁判中、チャブリノヴィッチは暗殺に参加したことに対する後悔を表明した。 判決が下された後、チャブリノヴィッチは孤児となった大公夫妻の3人の子供たちから、その罪を許す旨の手紙を受け取った{{sfn|Dedijer|1966|pp=345–346}}。懲役20年を言い渡されたチャブリノヴィッチとプリンツィプは、その後[[結核]]によって刑務所内で死亡した。オーストリア=ハンガリー法の下での懲役20年は、事件当時未成年(20歳未満)であった被告に対する最も重い刑罰だったが、プリンツィプの実際の生年月日については多少の疑いが存在したため、裁判では彼の年齢に関する議論が行われ、最終的にプリンツィプは暗殺時に20歳未満であったとの結論が下された{{sfn|Dedijer|1966|p=343}}。
ポポヴィッチとチュブリロヴィッチは終戦直後の1918年に出所した。ポポヴィッチは[[サラエボ博物館]]の[[学芸員]]を勤め、[[1980年]]に死去したサラエボ事件当事者最後の生き残りとなったチュブリロヴィッチは[[ベオグラード大学]]教授、[[ユーゴスラビア]]森林相を勤め、[[1990年]]に死去。サラエボ事件当事者最後の生き残りとなった。
===テッサロニキ裁判(1917年春)===
[[File:Dragutin-Dimitrijevic_Apis_Trial.jpg|thumb|[[テッサロニキ]]で裁判にかけられる[[黒手組]]指導者[[ドラグーティン・ディミトリエビッチ|ディミトリエビッチ]]]]
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3人の死刑囚が処刑場まで車で連れて行かれた際、ディミトリエビッチは運転手に向かって次のように述べた。「はっきりさせておくが、私が今日、セルビアの銃弾によって殺されるのは、サラエボの一件を指示したというただそれだけが理由なのだ」{{sfn|Albertini|1953|pp=80–81}}
 
メフメトバシッチは第一次世界大戦後に帰国して服役した後[[1919年]]に出所、[[1943年]]にサラエボで[[ウスタシャ]]により殺害されている。
 
==結果==