「サン・ファン・バウティスタ号」の版間の差分

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『宮城県の歴史』などで若干加筆しました。遣欧使節の動向については当該項目に詳しく、この項目では最小限にあればよいと考え、そのあたり少し整理しました。
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[[Image:Sanjuanbautista.jpg|thumb|240px|サン・ファン・バウティスタ号(復元)]]
{{座標一覧}}
'''サン・ファン・バウティスタ号'''({{lang-es-short|San Juan Bautista}}<ref group="注釈">{{IPA-es|saŋ xwan bauˈtista}} '''サ'''ン・フ'''ワ'''ン・バウ'''ティー'''スタ</ref>)は、[[仙台藩]]初代藩主・[[伊達政宗]]が[[江戸時代]]初同藩[[陸奥国仙台藩]]領内で建造された[[ガレオン船]]である。仙台領内に滞在していたから[[スペイン]]提督[[セバローマ]]へ赴いた[[ルイ・ソィアン・ビスカイノ]]に協力させて建造した約500[[トン支倉常長]]ら[[慶長遣欧使節]]西洋型渡航の中で、[[軍船太平洋]]であるの横断に使用された
 
船名は「[[洗礼者ヨハネ|洗礼者・聖ヨハネ]]」の意で<ref name="サン・ファン・バウティスタとは">“[https://www.santjuan.or.jp/restore.html サン・ファン・バウティスタとは]”(サン・ファン館)2019年7月27日閲覧。</ref>、スペイン側の資料に出てくるものである<ref name="宮城県の歴史162">『宮城県の歴史』162頁。</ref>。仙台藩の史料においては単に[[黒船]]と記述があり、固有の和名があったかどうかは不明である<ref name="宮城県の歴史162"/>。
船名は「[[洗礼者ヨハネ|洗礼者・聖ヨハネ]]」の意で、元は「伊達丸」と呼ばれていたとの説もある。
 
== まで ==
[[支倉常長]]ら[[慶長遣欧使節]]は、仙台と[[ローマ]]との往復のうち[[太平洋]]横断において同船を使用した。
[[Image:HasekuraWithShipDetail.jpg|thumb|250px|サン・ファン・バウティスタ号は[[1617年]][[ローマ]][[支倉常長]]と共に描かれている;Claude Deruet画<br>[[ガレオン船]][[]]の先端に、支倉の旗(オレンジ色の旗に赤い[[鉤十字]])が見える]]
仙台藩の藩祖である[[伊達政宗]]は、江戸時代の[[慶長]]年間に、スペインの宣教師ルイス・ソテロや家臣の支倉常長を使節を送った目的としてスペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用およびローマへ派遣ての[[倒幕]]た。これ慶長遣欧使節でったる。使節は、外国との説もあ貿易を実現すための交渉を目的としていた<ref group="†">大泉光一支倉常長 慶長遣欧使節宮城県悲劇歴史中央公論新社、1999年など160-161頁 </ref>{{Refnest|group="注釈"|伊達政宗が使節を送った目的として、スペインや[[大久保長安]]と結んで倒幕を図っていたという説明治時代から存在したが<ref>箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年。</ref><ref>大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。</ref>、これには批判もある<ref>小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。</ref>。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍[[徳川秀忠|秀忠]]付きの船手頭[[向井忠勝]]から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある<ref>鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下</ref>。}}。慶長遣欧使節が日本を出発したのは1913年10月(慶長18年9月)だが、これ以前の1611年(慶長16年)には海外貿易や造船の構想がすでにあったらしい<brref>スペインの探検家セバスティアン・ビスカイノが藩の重臣から聞かされたという。“[https://www.santjuan.or.jp/history.html 慶長遣欧使節関連年表]”(サン・ファン館)2019年7月27日閲覧。</ref>
 
この計画のため、1613年(慶長18年)にサン・ファン・バウティスタ号が建造された。建造地は仙台藩領内の[[桃生郡]]水浜<ref group="注釈">現在の[[宮城県]][[石巻市]][[雄勝町 (宮城県)|雄勝町]]水浜({{ウィキ座標|38|30|8.8|N|141|29|12.7|E|region:JP|地図|name=水浜(サン・ファン・バウティスタ号の建造地)}})にあたる</ref>である<ref>[http://blog.datebusyou.jp/article/231106102.html 空の慶長遣欧使節航海記](仙台市「奥州・仙台おもてなし集団 [[伊達武将隊]]」ブログ 2011年10月19日)</ref>。慶長慶長遣欧使節に同行したシピオーネ・アマチによれば、サン・ファン・バウティスタ号の建造には大工800人、鍛冶700人、雑役3000人が関わり、45日を要したという<ref name="サン・ファン・バウティスタとは"/>。進水後、この船は海上約50キロメートルを[[牡鹿郡]]月浦<ref group="注釈">現在の宮城県石巻市月浦。({{ウィキ座標|38|22|55.7|N|141|25|39.8|E|region:JP|地図|name=月の浦(サン・ファン・バウティスタ号の出航地)}})</ref>へ回航され、最終的な艤装を施された。そして、慶長遣欧使節のルイス・ソテロ、支倉常長らを乗せて出帆することになる。また、日本を訪れ、帰国中に乗っていた船が大破した[[セバスティアン・ビスカイノ]]もこれに同乗することになった。
== 概要 ==
日本での[[ガレオン船]]は1607年に[[徳川家康]]の命を受けた[[ウィリアム・アダムス]]により[[サン・ブエナ・ベントゥーラ]](120t)が建造されていた。これは、[[スペイン領フィリピンの総督|フィリピン総督]][[ロドリゴ・デ・ビベロ|ドン・ロドリゴ]]の一行が、[[マニラ]]から[[アカプルコ]]へ向けての航行中に遭遇した[[台風]]により船が破損したため、アカプルコへ到達できる西洋船が必要だった際に利用された。サン・ブエナ・ベントゥーラには[[田中勝介]]ら日本人22人が同乗し、アメリカ大陸へ渡った初めての日本人となった。帰国したドン・ロドリゴは、[[セバスティアン・ビスカイノ]]を返礼の大使として日本へ派遣、ビスカイノは[[金銀島探検]]のため家康の許可を得て日本沿岸の測量を行うこととなった。ビスカイノは測量を終え帰国する最中に乗船していた「サンフランシスコ号」が大破したため、新船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが外交政策の変更もあって断られていた。
 
[[慶長]]19年([[1614年]])、[[徳川家康]]の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、[[仙台藩家臣|仙台藩士]]・[[支倉常長]]を外交使節に任命し、支倉一行が[[スペイン]]との貿易交渉のため[[太平洋]]を横断する計画を立てた。また奥州沿岸の測量前に伊達政宗に謁見していたビスカイノ一行もこれに同乗することとなった。
 
この計画のために建造されたのがサン・ファン・バウティスタ号である。サン・ブエナ・ベントゥーラと同じくスペイン風[[ガレオン船]]([[南蛮船]])の様式を取っているが、排水量は500tとより大型化している。
 
伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての[[倒幕]]があったとの説もある<ref group="†">大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。 政宗がスペインや[[大久保長安]]と結んで倒幕を図っていたという説は明治時代から存在したが(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年)、これには批判もある(小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。</ref>。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍[[徳川秀忠|秀忠]]付きの船手頭[[向井忠勝]]から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある<ref>鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下</ref>。<br />
 
伊達政宗はこの[[慶長遣欧使節]]において、その正使にはビスカイノ提督ではなく、政宗と親しい[[フランシスコ会]]の[[宣教師]][[ルイス・ソテロ]]を任命した。ルイス・ソテロ、支倉常長、ビスカイノ提督らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、「日本初の対ヨーロッパ外交交渉」を行う旅に出た。
 
支倉らが目指したのは、[[スペイン帝国]]の中枢を成す、[[スペイン]]王国の[[フェリペ3世]]([[ポルトガル]]王兼任)である。当時スペインはフェリペ3世の父、[[フェリペ2世]]の時代に最盛期を終えた段階にあったが、依然としてスペイン帝国は「世界最大の植民地帝国」であった。
 
支倉常長とルイス・ソテロは、スペインの首都、[[マドリード]]の王宮で[[フェリペ3世]]と謁見した。しかし、この時期に日本国内では、徳川家康がキリスト教徒の大弾圧を行っていた。この情報がスペイン側に伝わり、支倉一行は窮地に立たされる。支倉一行は劣勢を挽回するために、[[ローマ]]の[[教皇]]との謁見を計画した。
 
支倉一行はローマで、名誉ある「ローマ入市式」を行うなどの大歓迎を受けた。支倉常長は[[ローマ市民権]]を与えられ、さらに[[貴族]]に叙された。支倉らはローマ教皇、[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウロ5世]]と謁見し、教皇にスペインとの外交交渉の助力を頼んだ。
 
ローマ教皇の支持を得た支倉一行は再びスペインのマドリードを訪れ、フェリペ3世と外交交渉を行った。しかし、結果的にこの外交交渉は失敗に終わった。
 
== 造船 ==
政宗の命により、慶長18年([[1613年]])に建造された。建造地は仙台藩・陸奥国[[桃生郡]]水浜([[三陸海岸]]の[[雄勝湾]])で、現在の[[宮城県]][[石巻市]][[雄勝町 (宮城県)|雄勝町]]水浜({{ウィキ座標|38|30|8.8|N|141|29|12.7|E|region:JP|地図|name=水浜(サン・ファン・バウティスタ号の建造地)}})にあたる<ref>[http://blog.datebusyou.jp/article/231106102.html 空の慶長遣欧使節航海記](仙台市「奥州・仙台おもてなし集団 [[伊達武将隊]]」ブログ 2011年10月19日)</ref>。
* 建造日数:45日
* 造船工:800人、鍛冶:700人、大工:3000人が参加
* 排水量:500[[トン|t]]
* 全長:55[[メートル|m]]
* 最大幅:11m
進水艤装後、海上50kmを月浦へ回航されて、最終的な艤装が施された。
<br />
復元船の重量は387t、復元費用は約17億円<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0304/NGY201303040017.html?ref=rss 一本松に続け、政宗の遣欧船よ再び 愛知の会社が修復]([[朝日新聞]] 2013年3月5日)</ref>。
 
== 航海 ==
[[Image:HasekuraWithShipDetail.jpg|thumb|250px|サン・ファン・バウティスタ号は[[1617年]]、[[ローマ]]の[[支倉常長]]と共に描かれている;Claude Deruet画<br>[[ガレオン船]]の[[帆]]の先端に、支倉の旗(オレンジ色の旗に赤い[[鉤十字]])が見える]]
[[ファイル:Hasekura Travels.jpg|サムネイル|250px|支倉常長の旅路と年号。このうち太平洋航海の往復分が当船。]]
[[ファイル:NicolasCardona1632.jpg|サムネイル|250px|スペインで1632年に刊行された本のアカプルコ湾に、日本の船が描かれており(図中のDの船)、1614年-151615年に停泊していたサン・ファン・バウティスタ号でないかと見られている。]]
[[File:San Juan Batista.jpg|thumb|320px|支倉常長がローマ教皇に謁見したときの絵。サン・ファン・バウティスタ号が左側に描かれている]]
 
=== 第一回航海(月浦ーアカプルコ) ===
[[1613年]][[10月28日]](慶長18年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]、サン・ファン・バウティスタ号は当時'''[[ヌエバ・エスパーニャ|ノビスパン]]'''=新イスパニアと呼ばれていた[[メキシコ]]の[[アカプルコ]]を目指して、仙台藩・陸奥国[[牡鹿郡]]月浦(つきのうら。現・宮城県石巻市月浦。{{ウィキ座標|38|22|55.7|N|141|25|39.8|E|region:JP|地図|name=月の浦(サン・ファン・バウティスタ号の出航地)}})から出航した。これを記念して月の浦港には、海軍[[元帥]][[東郷平八郎]]の石碑などが現存する。乗員180名(将軍下の[[]]:1010名、仙台の侍:1212名、日本人商人、水夫、家来:120120名、イスパニア人[[ポルトガル]]人:4040。ルイス・ソテロなど、180名が乗員セバスティアン・ビスカイノ(便乗)なった。航海には[[アンドレス・デ・ウルダネータ]]が[[1565年]]に開拓し[[マニラ・ガレオン]]が用いていたウルダネータの航路使用しわれた。操船はサンフランシスコ号乗組員の、船長ベニト・デ・パラシオ水先案内人ロレンソ・パスケスらのイスパニア人航海士や水夫が操船を行い、日本人水夫等はその下働きで操船術を体験した。船は[[北太平洋海流]]に乗って東進し、12月26日に北アメリカの[[メンドシノ岬]](北緯40度26分[[サンフランシスコ]]の北方300km)300キロメートル)を視認し、ここから[[カリフォルニア海流]]に乗って南下し、[[1614年]][[1月25日]](慶長18年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。当時は[[パナマ運河]]がないため、支倉とソテロは陸路でメキシコ市を経由して大西洋側に移動して別船にて[[ヨーロッパ]]へ向かった。
 
1年3ヶ月の停泊後、[[1615年]][[4月28日]](慶長20年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]])、スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、{{要出典範囲|date=2017年1月|仙台地域の[[鉱山]]産業の発展の為に約50人の鉱山業・[[銀]]精製業の専門家を乗せてアカプルコを出航した}}。船はマニラ・ガレオンが用いていた[[北赤道海流]]に乗って[[フィリピン]]東方に達し、ここから[[黒潮]]に乗って北上し[[1615年]][[8月15日]](慶長20年[[閏]][[6月21日]])3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。
=== 第一回復航海(アカプルコー浦賀) ===
1年3ヶ月の停泊後、[[1615年]][[4月28日]](慶長20年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]])、スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、{{要出典範囲|date=2017年1月|仙台地域の[[鉱山]]産業の発展の為に約50人の鉱山業・[[銀]]精製業の専門家を乗せてアカプルコを出航した}}。船はマニラ・ガレオンが用いていた[[北赤道海流]]に乗って[[フィリピン]]東方に達し、ここから[[黒潮]]に乗って北上し[[1615年]][[8月15日]](慶長20年[[閏]][[6月21日]])3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。
 
=== 第二回航海(浦賀ーアカプルコ) ===
[[1616年]][[9月30日]](元和2年[[6月20日]])、ルイス・ソテロの要求でサン・ファン・バウティスタ号は再びアカプルコを目指し、[[横澤吉久]]を船長として浦賀を出航(船長:[[横沢将監]](ょうげん))。スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らスペイン人10人、[[向井将監忠勝]]派遣の船頭ら日本人200人が同乗した。その航海中に悪天候他で船頭を含む約100名の水夫が亡くなった。[[1617年]][[2月23日]](元和3年[[1月18日]])にカリフォルニアのロス・モリネスに到着した。その後、アカプルコへ航行した。
 
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し[[1618年]][[4月2日]](元和4年[[3月7日]] に横沢将監澤吉久指揮の元でアカプルコを出航し、[[た。一行は1618年]][[8月10日]](元和4年[[6月20日]])にルソン(今のフィリピン)のマニラに到着したが、そこでサン・ファン・バウティスタ号は[[オランダ]]軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却を余儀なくされた。
=== 第二回復航海(アカプルコーマニラ) ===
ソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し[[1618年]][[4月2日]](元和4年[[3月7日]]) に横沢将監指揮の元でアカプルコを出航し、[[1618年]][[8月10日]](元和4年[[6月20日]])にルソン(今のフィリピン)のマニラに到着したが、[[オランダ]]軍への防衛を固めていたイスパニアへ売却を余儀なくされた。
 
=== 航海終了その後 ===
サン・ファン・バウティスタ号のその後の詳細は不明であり、イスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったなど複数の説がある。2018年には[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|アメリカの奴隷史]]研究を行う『Project 1619<ref>[http://www.project1619.org/ Project 1619 Inc.]</ref>』に参加している歴史家の調査により、[[奴隷貿易]]に関わっていたという説が提唱された<ref>[https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201811/20181126_13022.html サン・ファン号、奴隷運ぶ? マニラで売却後の足跡に新説 米の歴史家提唱 ] - [[河北新報]]</ref>。
 
支倉以下使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で、1620年8月下旬、長崎へ到着。1620年9月20日(元和6年8月24日)、丸7年振りに仙台へ帰国した。一行が帰還した時、日本の情勢は出発前のそれと大きく変化しており、キリシタン弾圧が始まるなど、[[鎖国]]に向かっていた。これらの情勢の変化により、使節の目的だった外国との貿易協定も実現しなかった。支倉常長は帰国後まもなく病死した。
=== 航海終了後 ===
支倉以下使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で、[[1620年]]8月下旬、長崎へ到着。[[1620年]][[9月20日]](元和6年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]])、丸7年振りに仙台へ帰国した。
支倉が帰還した日本は、元和元年([[1615年]])の[[豊臣家]]の滅亡、支倉訪欧計画の幕府側の窓口だった徳川家康の死(元和2年・[[1616年]])、慶長18年(1614年)の禁止令を端緒に大々的キリスト教・キリシタン(切支丹)弾圧が始まるなど日本の情勢は大きく変化しており、すなわち日本は[[鎖国]][[社会]]に向かっていた。
 
航海と訪欧の記録について航海日誌を筆頭に全て帰国前に廃棄されており、日本側に支倉使節団とサン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公的記録文書は残らなかった。バチカンの教皇庁宝物館には、伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書が今も保管されている。この伊達政宗親書や、支倉常長がローマやイスパニア、フィリピンなどから持ち帰った品々などが[[仙台市博物館]]に保管・展示されており、それらの慶長遣欧使節資料はのちに、歴史資料としては日本で初めて[[国宝]]に指定された
これらの情勢の変化により、進められていたノビスパン・ルソン・欧州諸国との[[貿易]][[協定]]も調印されなかった。支倉常長は帰国の2年後に病死した。その建前上の墓は、[[宮城県]][[仙台市]]の[[光明寺]]にある。<!--実際には支倉常長は、政宗の意向によって宮城県[[大郷町]]に隠れ住み、ここに常長の墓がある。常長は84才まで生きて天寿を全うした。-->支倉常長の息子の家来がキリシタンであり、これが原因となって支倉家は一時お家断絶の憂き目を見ている。この事実から、支倉常長はキリスト教の信仰を生涯守り続けた、と推測する説がある。
 
[[File:Tsukinoura.JPG|thumb|240px|right|石巻市・月浦にある、支倉常長の像]]
航海と訪欧の記録は航海日誌を筆頭に全て帰国前に廃棄されており、日本側に支倉使節団とサン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公的記録文書は残らなかった。バチカンの教皇庁宝物館には、伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書が今も保管されている。
現在、サン・ファン・バウティスタ号が出港した月浦には、[[支倉常長#支倉常長の立体像|常長像]]({{ウィキ座標|38|22|54.5|N|141|25|49.4|E|region:JP|地図|name=月の浦公園(支倉常長像)}})<ref name="IMK">[http://www.i-kanko.com/6-4.html 石巻市の歴史年表]([[社団法人]]石巻観光協会)</ref>や出帆の地の記念碑が設置されている。
 
== 復元船 ==
この伊達政宗親書や、支倉常長がローマやイスパニア、フィリピンなどから持ち帰った品々などが[[仙台市博物館]]に保管・展示されており、それらの慶長遣欧使節資料はのちに、歴史資料としては日本で初めて[[国宝]]に指定された。
1990年(平成2年)、サン・ファン・バウティスタ号の復元に向けて、宮城県内で県民運動が起こった<ref name="サン・ファン・バウティスタとは"/>。サン・ファン・バウティスタ号の正確な[[設計図]]は残っていなかったが、仙台藩の史料『[[伊達治家記録]]』にサン・ファン・バウティスタ号の規模や帆柱について記録があり、これをもとに現代の造船工学でシミュレーションを行うことで、船の復元が行われることになった。この際に問題になったのが、史料の中の「一[[間]]」の実寸である。一間の長さは時代や地域により変遷があり、単純には長さを決められなかった。史料に現れる一間は仙台藩の尺貫法によるものと判断され、一間6尺5寸として計算された<ref name="宮城県の歴史162"/>。これにより復元船の規模は、全長55.35メートル、全幅11.25メートル、吃水約3.8メートルとなった<ref name="サン・ファン・バウティスタとは"/>。
 
「インテリ知事」として知られた[[本間俊太郎]]が[[宮城県知事]]に就任すると、サン・ファン・バウティスタ号の復元計画が持ち上がり、正確な[[設計図]]は残っていなかったが、寸法図はあった為に復元されることになった。[[1992年]](平成4年)[[4月17日]]に「慶長遣欧使節船サン・ファン・バウティスタ号建造起工式」を執り行ってわれ、[[宮城県]][[石巻市]][[中瀬 (石巻市)|中瀬]]([[旧北上川]]の中洲)にある[[造船所]]<ref group="注釈">跡地は[[石ノ森萬画館]]。{{ウィキ座標|38|25|46.5|N|141|18|38.7|E|region:JP|地図|name=サン・ファン・バウティスタ号の復元が行われた造船所(跡地は[[石ノ森萬画館]])}})</ref group="†">で復元跡地には、[[2001年]](平成13年)[[7月23日]]に[[石ノ森萬画館]]が開館した。</ref>で建造を開まった<ref>[http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1994t1.html 伊達政宗の慶長遣欧使節団が航海した木造洋式帆船を復元]([[サントリー]]「サントリー地域文化賞」)</ref>、復元船の[[進水式]]は出帆380周年にあたる<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1993/00526/mokuji.htm 慶長遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ号」復元]([[日本財団]])</ref>[[1993年]]([[平成]]5年)[[5月22日]]に[[進水式]]をわれた<ref name="MiyagiHistorySS">[http://www.pref.miyagi.jp/kankou/administration/course.htm 宮城県観光のあゆみ](宮城県)</ref>。同年[[10月9日]]から[[11月7日]]まで慶長遣欧使節船完成記念「サン・ファン・バウティスタ号フェスティバル」開催され復元船は[[石巻漁港|石巻新漁港]]に仮係留され一般公開された後、[[1996年]](平成8年)[[8月10日]]に石巻市渡波にある第3種[[漁港]]・[[渡波漁港]] <ref>[http://www.pref.miyagi.jp/et-sgsin/Suigyo/port/watanoha.htm 渡波漁港](宮城県)</ref>に開館した[[テーマパーク]]「[[宮城県慶長使節船ミュージアム]]」(愛称:サン・ファン館。{{ウィキ座標|38|24|28.5|N|141|22|8.7|E|region:JP|地図|name=宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン・バウティスタ号の復元船係留地)}})に係留展示されている<ref name="MiyagiHistorySS"/>。復元費用は約17億円だった<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0304/NGY201303040017.html?ref=rss 一本松に続け、政宗の遣欧船よ再び 愛知の会社が修復]([[朝日新聞]] 2013年3月5日)</ref>。
== 現在 ==
[[File:San Juan Batista.jpg|thumb|320px|支倉常長がローマ教皇に謁見したときの絵。サン・ファン・バウティスタ号が左側に描かれている]]
[[File:Tsukinoura.JPG|thumb|240px|right|石巻市・月浦にある、支倉常長の像]]
月浦港には昔から様々な記念碑が設置されてきた。[[1987年]](昭和62年)、同港の上の山腹を通って[[牡鹿半島]]を縦断する[[宮城県道2号石巻鮎川線|県道石巻鮎川線]]沿いの月浦(月の浦)バス停付近に[[支倉常長#支倉常長の立体像|常長像]]が設置された<ref name="IMK">[http://www.i-kanko.com/6-4.html 石巻市の歴史年表]([[社団法人]]石巻観光協会)</ref>。また、出帆の地の記念碑、少し離れて展望台も設置された({{ウィキ座標|38|22|54.5|N|141|25|49.4|E|region:JP|地図|name=月の浦公園(支倉常長像)}})、
 
[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])に伴う[[津波]]が何度も渡波漁港に押し寄せ、復元船の周囲を囲むように建つドック棟を呑み込み、建物を破壊して展示物の多くが流失する被害を受けた<ref name="SJBblog20110508">[http://santjuan.exblog.jp/15484066/ 復元船・館内の状況について①](「サン・ファン館のブログ」2011年5月8日)</ref><ref name="kahoku20120419">[http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120419t13018.htm 「サン・ファン館」復旧着手へ、展示内容を大幅見直し 石巻]([[河北新報]] 2012年4月19日)</ref>。このとき復元船は津波を乗り越えたため外板の一部破損で済んだが、同年[[4月27日]]深夜から翌[[4月28日|28日]]早朝にかけての暴風<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_s1.php?prec_no=34&prec_ch=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C&block_no=47592&block_ch=%E7%9F%B3%E5%B7%BB&year=2011&month=4&day=27&elm=minutes&view= 石巻 2011年4月27日]([[気象庁]])</ref><ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_s1.php?prec_no=34&prec_ch=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C&block_no=47592&block_ch=%E7%9F%B3%E5%B7%BB&year=2011&month=4&day=28&elm=minutes&view= 石巻 2011年4月28日](気象庁)</ref>により、3本ある[[マスト]]のうち前方にある28メートルのフォアマスト(高さ約28[[メートル|m]])が根元から折れ、真ん中にある32メートルのメインマスト(同32m)が上部1/3分の1ほどから折れた<ref name="SJBblog20110508"/><ref name="SJBblog20111222">[http://santjuan.exblog.jp/17417281/ 復元船・館内の状況について②](「サン・ファン館のブログ」2011年12月22日)</ref><ref name="kahoku20120512">[http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120512t11014.htm マスト用木材寄贈へ サン・ファン号 年度内復旧目指す](河北新報 2012年5月12日)</ref>。宮城県は、2011年度[[補正予算]]でドック棟の復旧費に3億5800万円、復元船の修復費に2億1200万円を計上しており、[[2012年]](平成24年)度中の工事終了を目指すとしていた<ref name="kahoku20120419"/>。復元船の修復にあたり、フォアマスト用の10メートルから15メートルの[[ベイマツ]]4本(約10-15m)およびメインマスト用の14メートルの[[スギ]]1本(約14m)が、[[カナダ]]・[[ブリティッシュコロンビア州]]の製材会社「ウェスタン・フォレスト・プロダクツ社」から寄贈されることになった<ref name="kahoku20120512"/>。
「インテリ知事」として知られた[[本間俊太郎]]が[[宮城県知事]]に就任すると、サン・ファン・バウティスタ号の復元計画が持ち上がり、正確な[[設計図]]は残っていなかったが、寸法図はあった為に復元されることになった。[[1992年]](平成4年)[[4月17日]]に「慶長遣欧使節船サン・ファン・バウティスタ号建造起工式」を執り行って[[宮城県]][[石巻市]][[中瀬 (石巻市)|中瀬]]([[旧北上川]]の中洲)にある[[造船所]](跡地は[[石ノ森萬画館]]。{{ウィキ座標|38|25|46.5|N|141|18|38.7|E|region:JP|地図|name=サン・ファン・バウティスタ号の復元が行われた造船所(跡地は石ノ森萬画館)}})<ref group="†">造船所の跡地には、[[2001年]](平成13年)[[7月23日]]に[[石ノ森萬画館]]が開館した。</ref>で建造を開始し<ref>[http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1994t1.html 伊達政宗の慶長遣欧使節団が航海した木造洋式帆船を復元]([[サントリー]]「サントリー地域文化賞」)</ref>、出帆380周年にあたる<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1993/00526/mokuji.htm 慶長遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ号」復元]([[日本財団]])</ref>[[1993年]]([[平成]]5年)[[5月22日]]に[[進水式]]を行った<ref name="MiyagiHistorySS">[http://www.pref.miyagi.jp/kankou/administration/course.htm 宮城県観光のあゆみ](宮城県)</ref>。同年[[10月9日]]から[[11月7日]]まで慶長遣欧使節船完成記念「サン・ファン・バウティスタ号フェスティバル」を開催し、[[石巻漁港|石巻新漁港]]に仮係留され一般公開された後、[[1996年]](平成8年)[[8月10日]]に石巻市渡波にある第3種[[漁港]]・[[渡波漁港]]<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/et-sgsin/Suigyo/port/watanoha.htm 渡波漁港](宮城県)</ref>に開館した[[テーマパーク]]「[[宮城県慶長使節船ミュージアム]]」(愛称:サン・ファン館。{{ウィキ座標|38|24|28.5|N|141|22|8.7|E|region:JP|地図|name=宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン・バウティスタ号の復元船係留地)}})に係留・展示されている<ref name="MiyagiHistorySS"/>。
 
[[1611年]][[12月2日]](慶長16年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]])に発生した[[慶長三陸地震]]・津波から2年後の[[1613年]]に月の浦からサン・ファン・バウティスタ号が出帆し、[[1615年]]にスペイン国王やローマ教皇に謁見したことから、その400年後にあたる2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波により被災したサン・ファン館およびサン・ファン・バウティスタ号復元船を復旧・修復し、[[2013年]](平成25年)から[[2015年]](平成27年)まで『東日本大震災復興「慶長使節400年記念事業」』が実施されている<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syoubun/keicho-mission-400.html 慶長遣欧使節出帆400年記念事業実行委員会] - 宮城県庁ウェブサイト</ref>。サン・ファン・バウティスタ号や施設の修復は2013年に完了し、サン・ファン館は2013年11月、震災以来2年8ヶ月ぶりに再オープンした<Ref>[http://santjuan.exblog.jp/21399892/ 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)再開館のお知らせ] - サン・ファン館のブログ(2013年11月3日)</ref>。
[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])に伴う[[津波]]が何度も渡波漁港に押し寄せ、復元船の周囲を囲むように建つドック棟を呑み込み、建物を破壊して展示物の多くが流失する被害を受けた<ref name="SJBblog20110508">[http://santjuan.exblog.jp/15484066/ 復元船・館内の状況について①](「サン・ファン館のブログ」2011年5月8日)</ref><ref name="kahoku20120419">[http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120419t13018.htm 「サン・ファン館」復旧着手へ、展示内容を大幅見直し 石巻]([[河北新報]] 2012年4月19日)</ref>。このとき復元船は津波を乗り越えたため外板の一部破損で済んだが、同年[[4月27日]]深夜から翌[[4月28日|28日]]早朝にかけての暴風<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_s1.php?prec_no=34&prec_ch=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C&block_no=47592&block_ch=%E7%9F%B3%E5%B7%BB&year=2011&month=4&day=27&elm=minutes&view= 石巻 2011年4月27日]([[気象庁]])</ref><ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_s1.php?prec_no=34&prec_ch=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C&block_no=47592&block_ch=%E7%9F%B3%E5%B7%BB&year=2011&month=4&day=28&elm=minutes&view= 石巻 2011年4月28日](気象庁)</ref>により、3本ある[[マスト]]のうち前方にあるフォアマスト(高さ約28[[メートル|m]])が根元から折れ、真ん中にあるメインマスト(同32m)が上部1/3ほどから折れた<ref name="SJBblog20110508"/><ref name="SJBblog20111222">[http://santjuan.exblog.jp/17417281/ 復元船・館内の状況について②](「サン・ファン館のブログ」2011年12月22日)</ref><ref name="kahoku20120512">[http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120512t11014.htm マスト用木材寄贈へ サン・ファン号 年度内復旧目指す](河北新報 2012年5月12日)</ref>。宮城県は、2011年度[[補正予算]]でドック棟の復旧費に3億5800万円、復元船の修復費に2億1200万円を計上しており、[[2012年]](平成24年)度中の工事終了を目指すとしていた<ref name="kahoku20120419"/>。復元船の修復にあたり、フォアマスト用の[[ベイマツ]]4本(約10-15m)およびメインマスト用の[[スギ]]1本(約14m)が、[[カナダ]]・[[ブリティッシュコロンビア州]]の製材会社「ウェスタン・フォレスト・プロダクツ社」から寄贈されることになった<ref name="kahoku20120512"/>。
 
2016年(平成28年)の調査では東日本大震災の津波により船体が歪んでいることや、主要な部材やマストの腐食が進行しているため寿命は5年ほどとされ、2017年3(平成29年)3月から乗船禁止されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20161126/ddl/k04/040/188000c サン・ファン・バウティスタ号:解体へ 有識者委提言「存続20年まで」 /宮城 - 毎日新聞]</ref>。今後はオリンピックが開催される2020年(令和2年)まで現状を維持し、その後に解体するプランが有力視されている。復興途上である宮城県では新造船の予算を確保するのは難しく、[[クラウドファンディング]]なども検討している。また修理しようにも船大工の高齢化で国内での修理は不可能とされる<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170426_13039.html <サン・ファン号>館長「日本に補修技術ない」] - [[河北新報]]オンラインニュース</ref>。
[[1611年]][[12月2日]](慶長16年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]])に発生した[[慶長三陸地震]]・津波から2年後の[[1613年]]に月の浦からサン・ファン・バウティスタ号が出帆し、[[1615年]]にスペイン国王やローマ教皇に謁見したことから、その400年後にあたる2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波により被災したサン・ファン館およびサン・ファン・バウティスタ号復元船を復旧・修復し、[[2013年]](平成25年)から[[2015年]](平成27年)まで『東日本大震災復興「慶長使節400年記念事業」』が実施されている<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syoubun/keicho-mission-400.html 慶長遣欧使節出帆400年記念事業実行委員会] - 宮城県庁ウェブサイト</ref>。サン・ファン・バウティスタ号や施設の修復は2013年に完了し、サン・ファン館は2013年11月、震災以来2年8ヶ月ぶりに再オープンした<Ref>[http://santjuan.exblog.jp/21399892/ 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)再開館のお知らせ] - サン・ファン館のブログ(2013年11月3日)</ref>。
 
2016年の調査では東日本大震災の津波により船体が歪んでいることや、主要な部材やマストの腐食が進行しているため寿命は5年ほどとされ、2017年3月から乗船を禁止している<ref>[https://mainichi.jp/articles/20161126/ddl/k04/040/188000c サン・ファン・バウティスタ号:解体へ 有識者委提言「存続20年まで」 /宮城 - 毎日新聞]</ref>。今後はオリンピックが開催される2020年まで現状を維持し、その後に解体するプランが有力視されている。復興途上である宮城県では新造船の予算を確保するのは難しく、[[クラウドファンディング]]なども検討している。また修理しようにも船大工の高齢化で国内での修理は不可能とされる<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170426_13039.html <サン・ファン号>館長「日本に補修技術ない」] - [[河北新報]]オンラインニュース</ref>。
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* 渡辺信夫、今泉隆雄、大石直正、難波信雄(共著) 『宮城県の歴史』 山川出版社、1999年。
 
== 関連項目 ==
* [[朱印船]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.santjuan.or.jp/index.html 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン パーク/ サン・ファン館)]
<!-- リンク切れ * [http://www.city.ishinomaki.lg.jp/shokokanko/sangyou_kankou/kankousisetu/tukinoura.jsp 月浦(つきのうら)](石巻市)-->