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== 経歴 ==
清方は1878年、[[東京府|東京]]・[[神田佐久間町]]に生まれた<ref name="20世紀日本人名事典">[https://kotobank.jp/word/%E9%8F%91%E6%9C%A8%20%E6%B8%85%E6%96%B9-1642531 鏑木清方] 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2018年7月9日閲覧。</ref>。本名は'''健一'''<ref name=Tobunken/>。元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった<ref name="20世紀日本人名事典"/><ref name=Tobunken/>。父は[[条野採菊]]といい、ジャーナリストでありながら<ref>児山敬一 『教科書に出る 人物学習辞典 2巻 オハ~サト』昭和61年、77頁。</ref>山々亭有人と号した幕末の[[人情本]]作家であった。13歳となる[[1891年]](明治24年)7月、[[浮世絵]]師の系譜を引く[[水野年方]]に入門した<ref name="20世紀日本人名事典"/><ref name=Tobunken/>。翌年には家庭の事情により神田の[[日本学園中学校・高等学校|東京英語学校]]をやめ、画業に専心している<ref name=Tobunken/>。[[1893年]](明治26年)に師の年方から「清方」の雅号を贈られた<ref name=Tobunken/>。この頃の清方は[[鷺流]]の狂言も学んでおり、同年には日本橋倶楽部で狂言師として初舞台も踏んでいる<ref name=Tobunken/>。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「[[やまと新聞]]」に挿絵を描き始め、続いて「東北新聞」や「九州日報」などの地方新聞や諸雑誌などに挿絵を描き<ref name=Tobunken/>、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。師である年方もまた「やまと新聞」に挿絵を描いており、年方が展覧会出品の作品制作に向かうにつれ、清方も20歳となった[[1897年]](明治30年)の第2回[[日本絵画協会]](絵協)展に初めて「ひなた」を出品した。7月には小説雑誌「新著月刊」に[[口絵]]を描き、[[尾崎紅葉]]と出会うきっかけとなった<ref name=Tobunken/>。清方は以降も絵協に出典を重ねながら、「新著月刊」や「新小説」の口絵、人民新聞社や[[読売新聞社]]へ入社して挿絵を描いた<ref name=Tobunken/>。[[美人画]]や風俗画家としての活動も始めるが、[[1901年]](明治34年)に[[泉鏡花]]と知り合い<ref name=Tobunken/>、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。
鏡花と出会った1901年には、仲間の画家である[[鰭崎英朋]]、[[池田輝方]]、[[池田蕉園]]、[[大野静方]]、[[河合英忠]]、[[山中古洞]]、[[山村耕花]]らと共に[[烏合会]](うごうかい)を結成した<ref name=Tobunken/>。このころから、「本絵」(「挿絵」に対する独立した絵画作品の意)の制作に本格的に取り組みはじめ、烏合会の展覧会がおもな発表場所となる。初期の代表作として『一葉女史の墓』([[1902年]])がある。少年期から[[樋口一葉]]を愛読した清方は、一葉の肖像や、一葉作品をモチーフにした作品をいくつか残している。その後[[1916年]]([[大正]]5年)には[[結城素明]]、[[吉川霊華]](きっかわれいか)、[[平福百穂]](ひらふくひゃくすい)、[[松岡映丘]]らと[[金鈴社]]を結成、特に映丘と親交を深めた<ref name=Tobunken/>。しかしながら清方自身はこうした会派、党派的活動には関心があまりなかったようだ<ref name=Tobunken/>。[[1927年]](昭和2年)、第8回[[帝展]]に出品した代表作『[[築地明石町]]』は[[帝国美術院賞]]を受賞した。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続けた。鏡花の影響を受けた清方自身も文章をよくし、『こしかたの記』などいくつかの随筆集を残している。[[1929年]](昭和4年)には[[帝国美術院]]、[[1937年]](昭和12年)には帝国芸術院においてそれぞれ会員に選出され
[[File:Kaburaki Kiyokata.JPG|thumb|200px|left|
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]の空襲で東京の自宅が焼け、終戦後の晩年は[[鎌倉市|鎌倉]]に住んだ。[[関東大震災]]と第二次大戦による空襲という2つの災害によって、清方がこよなく愛した明治時代の古き良き東京の風景は消え去ってしまったが、清方は自分がこよなく愛した東京の下町風俗や当世風の美人を終生描き続け
挿絵画家出身で、[[浮世絵]]の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。[[重要文化財]]指定の『[[三遊亭圓朝|三遊亭円朝]]像』([[1930年]]・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、幼き日に父を通じて出会い、画家になるのを勧め、栃木方面に取材に連れ出したこともある恩人を敬愛を込めて描き上げた代表作の一つに数えられている。
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