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=== 徐州会戦と武漢攻略 ===
1938年4月2日、[[山東省 (中華民国)|山東省]]を制圧した[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]の一支隊が同省南西端へも進出し[[台児荘区|台児荘]]付近で中国軍と交戦したが、7日までに撤退した([[台児荘の戦い]])。これは抗日戦争初の大勝利と喧伝されて中国軍民を鼓舞した<ref name="isikawa188">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p188</ref>。[[台児荘区|台児荘]]の南には[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[安徽省 (中華民国)|安徽]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]の四省境が接する交通戦略の要衝・[[徐州市|徐州]]があった。中国軍の大兵力が[[徐州市|徐州]]に集結していると判断した大本営は<ref name="isikawa188" />一挙殲滅の好機と捉えて、4月7日に[[北支那方面軍]]と[[中支那派遣軍]]の両軍に徐州攻略の共同作戦を下令した<ref name="usu97to101" />。[[徐州市|徐州]]周辺にひしめく中国軍[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]、[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]の総勢60万人に向かって、山東省方面と南京方面からそれぞれ10万人の日本軍部隊が進軍し、5月5日から作戦が発動されて日中戦争二番目の規模の戦いとなる[[徐州会戦]]が始まった。日中合わせて80万人の激戦が繰り広げられる中で、16日に[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]司令長官[[李宗仁]]は早くも抗戦を諦めて徐州放棄を決断した<ref name="usu97to101"/>。李宗仁の素早い判断により日本軍は当初の目的である包囲殲滅には失敗したが中国側の後退に応じて突出し、19日に徐州を占領した。25日、北支軍の[[寺内寿一]]大将と中支軍の[[畑俊六|畑駿六]]大将が揃って徐州に入城し、取り逃がした第5・第1戦区軍の追撃態勢に移った<ref name="kojima347">児島、347頁。</ref><ref name="masui175-176">益井、175-176頁。</ref>。
 
* 5月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[福建省 (中華民国)|福建省]]・[[廈門市|廈門]]を占領した。
* 5月26日 - 内閣改造が行なわれ対中強硬派の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、[[東条英機]]が陸軍次官となった<ref name="usu97to101"/>。一方で[[宇垣一成]]外務大臣は和平工作を断念せず 、香港の中村領事と[[孔祥熙]]の秘書喬輔三の間での水面下交渉を9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。
 
6月6日、 中国軍を西へ追撃する[[中支那派遣軍]]と[[北支那方面軍]]はそのまま[[河南省 (中華民国)|河南省]]に侵入し[[開封市|開封]]と[[鄭州市|鄭州]]を占領した。[[鄭州市|鄭州]]は各都市への中継点となる交通の最要地であり、ここの確保は[[武漢市|武漢]]や[[西安市|西安]]への迅速な侵攻を可能にした。徐州会戦の敗色でこの事態を予測していた中国軍は、5月下旬から鄭州一帯を水没させて日本軍の行動を抑止する[[為の黄河決壊事件|黄河決壊]]の準備を進めていた。6月9日に堤防がされ黄河から溢れ出た濁流は、[[河南省 (中華民国)|河南省]]の広範囲だけでなく[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]北部と[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]北西部をも呑みこみ、総計3000平方kmの土地を押し流して数十万人の住民犠牲者を出した([[黄河決壊事件]])<ref name="isikawa188" />。軍事目的の環境破壊としては史上最大であり、黄河下流域ではその後10年に渡って河川環境変化に伴う水害、[[蝗害]]、凶作、飢饉に悩まされる事になったが、実際の成果は日本軍に[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]軍の追撃を断念させたのと武漢侵攻を二ヶ月程遅らせたに過ぎなかった。
 
6月15日、[[御前会議]]の中で中国軍の最要地[[武漢市|武漢]]と貿易の要港[[広州市|広州]]の攻略が決定された<ref name="usu97to101" />。この両都市は[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)の拠点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う[[中支那派遣軍]]が大幅に増強された<ref name="usu97to101" />。7月29日から満州国南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した([[張鼓峰事件]])。8月22日、[[武漢作戦]]が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]に侵攻した<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。湖北省一帯には中国軍蒋介石が指導する[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]と[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]の総勢110万の戦力が展開されており、こうして火蓋が切られた[[武漢会戦]]は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで目まぐるしい攻防が続いた。同時期に{{仮リンク|広州作戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=}}も開始され、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]と[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が陸海共同して10月21日に[[広東省 (中華民国)|広東省]]の[[広州市|広州]]を占領した<ref name="usu102to110" />。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮([[武昌区|武昌]]、[[漢口]]、[[漢陽区|漢陽]])を攻略占領武漢作戦を完遂し<ref name="usu102to110" />同時に[[抗日戦争第5戦区|第5援蒋ルート]]・[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]軍を作戦指導も遮断てい蒋介石は首都重慶に逃れた<ref name="usu124to135" />。
 
11月3日、武漢と広州の占領で蒋介石の戦意を挫けるという楽観的見通しを立てていた近衛首相は、[[第二次近衛声明]]の中で[[重慶市|重慶]]の[[国民政府]]に[[東亜新秩序]]への参加を呼びかけ実質的な停戦降服を促した。国民政府内ではこれを支持する[[汪兆銘]]と蒋介石の路線対立が顕著となった。12日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]](武漢)の次の侵攻先と見なされた[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]で再び[[清野作戦]]が実行され省都[[長沙市|長沙]]は大火災に包まれ消滅した([[長沙大火]])。11月中に英領[[ビルマ]]から[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]-[[四川省 (中華民国)|四川省]]-重慶へと繋がる新たな[[援蒋ルート]]が確立されていた。20日、日中講和に向けた秘密協定の日華協議記録が成立し、日本側から[[影佐禎昭]]と[[今井武夫]]、中国側から[[高宗武]]と[[梅思平]]の間で調印された。その内容には日華防共協定、満州国承認、日本軍の二年以内撤退などが盛り込まれていた<ref name="usu111to117" />。
* 1938年[[11月3日]] - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの[[東亜新秩序]]声明(第二次近衛声明)を出した<ref name="usu102to110"/>。蒋介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した<ref name="usu102to110"/>。
* [[11月12日]] - 中国軍により[[長沙大火]]が起され、人口50万の都市が潰滅。
* [[11月]] - [[援蒋ルート]](ビルマルート)完成。
* [[11月20日]]、秘密協定「[[日華協議記録]]」が成立し、日本側からは[[影佐禎昭]]大佐、[[今井武夫]]中佐、中国側は[[高宗武]]、[[梅思平]]の間で調印された<ref name="usu111to117"/>。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった<ref name="usu111to117"/>。
* [[11月30日]]、御前会議で日支新関係調整方針を決定<ref name="usu102to110"/>。
[[12月6日]]決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した<ref name="usu102to110"/>。[[12月16日]]、中国政策のための国策会社[[興亜院]]が成立する<ref name="usu102to110"/>。[[12月18日]]には蒋介石との路線対立で[[汪兆銘]]が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう<ref name="usu111to117" />。[[12月22日]]、近衛首相が[[近衛三原則]]を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった<ref name="usu111to117" />。[[12月25日]]、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は[[12月26日]]に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>。しかし、汪兆銘は[[12月30日]]の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した<ref name="usu119to123" />。1939年[[1月1日]]、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された<ref name="usu119to123" />。
 
[[12月6日]]、新たに決定の「昭和十三年秋季以降された対支処理方策の中、日本軍これ以上の地拡大を企図せ望ま、占拠した現有地域安定確保の「治安地域」とに努め、抗日殲滅地域拠点「作掃討地域」に区分しのみを行なう旨が確認された<ref name="usu102to110" />。[[12月16日]]日本の勢力圏が広がった中国政策大陸でため経済活動振興為に国策会社[[興亜院]]がするされた<ref name="usu102to110" />。[[12月18日]]には蒋介石との路線対立で身の危険を感じた[[汪兆銘]]が重慶を脱出し、[[昆明市|昆明]]から[[ハノイ]]に向かった<ref name="usu111to117" />。[[12月22日]]、近衛首相が第三次近衛声明の中で[[近衛三原則]]を発表(第三次近衛声明)したそれは日華協議記録と類似した内容であった<ref name="usu111to117" />。[[12月25が、肝心の]]本軍が二年以内に撤退する事項が削除されており和平派の汪兆銘は梯子を外された形となった。面目を失った汪兆銘はなおも25日に日本の講和条件は決して亡国的なものではないとハノイの駐英大使を通して国民党内つたた。対す一方、蒋介石は[[12月26日]]に近衛声明を批判一蹴た上でまた汪兆銘のハノイ行きは療養目的であった26日に発表し<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>彼の路線修正と帰参を暗に促した。また28日に蒋介石は[[東亜新秩序]]は中国の奴隷化と世界の分割支配を企図したものだと糾弾し、アメリカもそれに同調して日本を批判した<ref name="usu102to110" />。しかし、汪兆銘は[[12月30日]]の香港『南華日報』に、紙上で近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表したので<ref name="usu119to123" />、年が明けた1939年[[1月1日]]、に中国国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。和平工作の失敗と共に中国政策の手詰まりに陥った[[近衛文麿]]首相は1939年31214日に汪兆銘は暗殺されようとするが内閣総辞職し曽仲鳴が代わり[[平沼内閣]]殺害され交代した<ref name="usu119to123usu102to110" />。
=== 重慶爆撃と汪兆銘政権設立 ===
 
=== 重慶爆撃と汪兆銘政権立 ===
[[ファイル:Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking,_China.jpg|thumb|防空壕付近で<!--4,000人が-->圧死または窒息死した市民(1941年6月5日の重慶爆撃)|代替文=]]
1939年(昭和14年)[[1月4日]]、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる<ref name="usu102to110"/>。1939年の作戦としては1月からの[[重慶爆撃]]<ref name="usu124to135" />、[[2月10日]]の[[海南島]]上陸、[[3月]]の[[海州区 (連雲港市)|海州]]など[[江蘇省]]の要所占領、[[3月27日]]の[[南昌]]攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった<ref name="usu111to117" />。[[阿部信行]]大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。3月21日、汪兆銘の暗殺未遂事件が発生し曽仲鳴が代わりに殺害された<ref name="usu119to123" />。
 
* [[4月]] - 中国軍、南支で春季反撃作戦。