「ジョージ・マクレラン」の版間の差分

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== 南北戦争 ==
南北戦争の初期、マクレランは北軍の部隊を訓練し組織化された軍隊とするために重要な役割を果たした。彼は計画と準備において綿密であったため、戦闘において素早く変化する相手の奇襲攻撃能力を着実に封じ込めた。また彼は[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]時代に比べて兵器が進歩し攻撃側が著しく不利になったことを知っていたため、少しくらいの戦力差では無謀な正面総突撃をしなかった。そのためほとんどの将軍が幾度となく敗北を喫した[[ロバート・E・リー]]将軍に、勝利または大損害を与えることができた。
[[1862年]]の[[半島方面作戦|半島戦役]]においてマクレランは、南軍の[[ジョセフ・ジョンストン]]、次いで交代したリーと戦い、[[七日間の戦い]]でリーの軍に自軍より多くの損害を与えることに成功した。そして首都要塞攻略が可能なほど戦力差がないことを冷静に判断<ref>戦争末期[[ユリシーズ・グラント|グラント]]は2倍もの兵力で首都要塞を攻撃して結局攻め落とせなかったが、この時のマクレランは3割程度しか優越していなかった。</ref>し、[[アメリカ連合国|連合国]]首都の[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]を占領せよという合衆国大統領[[エイブラハム・リンカーン]]からの無謀な要請を放棄して軍を引き揚げた。リーの北部侵攻によって起こった凄惨な[[アンティータムの戦い]]におけるマクレランの働きは、リーによるメリーランドへの侵略を阻止したが、兵力の不利を地の利でカバーするリー相手には、同程度の損害を与えただけで[[北バージニア軍]]を壊滅させることまではできなかった。ただ、これはリーと戦った北軍の将軍たちが、常に兵力で勝っていたにも関わらず、繰り返し敗れていたこと([[ユリシーズ・グラント]]でさえ倍近い兵力でリーに当たったにもかかわらず、幾度も敗れている)からすれば、驚異的な勝利である。さらにアンティータムの勝利は、政治的には、リンカーンの[[奴隷解放宣言]]を表に出す絶好のタイミングを与えた(連敗した状態だと奴隷解放宣言は苦し紛れの策、ひいては北部は劣勢だと内外に思われる危険があるため、どうしても勝った後に宣言を出す必要があった)。しかし結果として、戦闘中の統率力をリンカーンに疑問視されたため、マクレランはまず最高司令官の職を、次いでポトマック軍の指揮官職も解任された。リンカーンはマクレランについて「彼は自分自身と戦うことができないなら、他の者を戦わせる準備を行うのに優れている」<ref name=Tried122>McPherson, ''Tried by War'', p. 122.</ref>と語った。にもかかわらず、彼はポトマック軍の中でも最も人気のある司令官であった。
 
[[1862年]]の[[半島方面作戦|半島戦役]]においてマクレランは、南軍の[[ジョセフ・ジョンストン]]、次いで交代したリーと戦い、[[七日間の戦い]]でリーの軍に自軍より多くの損害を与えることに成功した。そして首都要塞攻略が可能なほど戦力差がないことを冷静に判断<ref>戦争末期[[ユリシーズ・グラント|グラント]]は2倍もの兵力で首都要塞を攻撃して結局攻め落とせなかったが、この時のマクレランは3割程度しか優越していなかった。</ref>し、[[アメリカ連合国|連合国]]首都の[[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]を占領せよという合衆国大統領[[エイブラハム・リンカーン]]からの無謀な要請を放棄して軍を引き揚げた。リーの北部侵攻によって起こった凄惨な[[アンティータムの戦い]]におけるマクレランの働きは、リーによるメリーランドへの侵略を阻止したが、兵力の不利を地の利でカバーするリー相手には、同程度の損害を与えただけで[[北バージニア軍]]を壊滅させることまではできなかった。ただ、これはリーと戦った北軍の将軍たちが、常に兵力で勝っていたにも関わらず、繰り返し敗れていたこと([[ユリシーズ・グラント]]でさえ倍近い兵力でリーに当たったにもかかわらず、幾度も敗れている)からすれば、驚異的な勝利である。さらにアンティータムの勝利は、政治的には、リンカーンの[[奴隷解放宣言]]を表に出す絶好のタイミングを与えた(連敗した状態だと奴隷解放宣言は苦し紛れの策、ひいては北部は劣勢だと内外に思われる危険があるため、どうしても勝った後に宣言を出す必要があった)。しかし結果として、戦闘中の統率力をリンカーンに疑問視されたため、マクレランはまず最高司令官の職を、次いでポトマック軍の指揮官職も解任された。リンカーンはマクレランについて「彼は自分自身と戦うことができないなら、他の者を戦わせる準備を行うのに優れている」<ref name=Tried122>McPherson, ''Tried by War'', p. 122.</ref>と語った。にもかかわらず、彼はポトマック軍の中でも最も人気のある司令官であった。
 
マクレランはリンカーンからの信頼を繋ぎとめることにも失敗し、苛立たしいほどに最高司令官に服従しなくなった。解任された後のマクレランは[[1864年アメリカ合衆国大統領選挙|1864年の大統領選挙]]でリンカーンと争う[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の指名候補になったが、敗れた。民主党は戦争の終結と連合国との交渉を公約した反戦の政治要項を掲げたが、マクレランは彼の戦役の有効性へダメージがあるとしてこれを否定せざるをえなかった。