「日中戦争」の版間の差分

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1937年7月7日夜、[[支那駐屯軍]]の一部隊が北平(現在の北京)市街地から南西約10kmにある[[盧溝橋]]の東岸で夜間演習を行なっている際に二度の発砲を受けた。この部隊の上司である[[牟田口廉也|牟田口]]大佐が、盧溝橋の西岸にある[[宛平県|宛平県城]]の中国軍部隊に抗議を兼ねた交渉を試みたが、日付変更後の8日未明から明け方にかけて中国側からの発砲が繰り返されたので、ついには日中間の部隊戦闘へと発展した。この武力衝突は同日午後に収束へと向かい夕方には停戦が合意されて一旦沈静化したが、その後も出所不明の銃撃が散発した。[[支那駐屯軍]]は[[北京議定書]]の中で邦人居留民保護の為に北京駐留を認められた部隊であったが、盧溝橋で発砲された部隊が駐兵していた[[豊台]]区は議定書の範囲外という事情もあった<ref name="英国軍ノ豊台守備ノ経緯ト日本軍ヲ配置セントスル能否調査">{{アジア歴史資料センター|C01004192300|軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)}}</ref>。当時の北京には邦人17000名が在留していた<ref name="kawakami136to149" />。7月8日に蒋介石は日記に「倭冦の挑発に対して応戦すべき」と書いて<ref name="usu65to72">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p65-72</ref>翌9日に四個師団と軍用機を河北省へ先行派遣し<ref name="kawakami136to149"/>、10日からは河北省に向けた総兵力20万人に及ぶ30個師団の動員令を出していた<ref name="kawakami136to149" />{{refnest|group="注釈"|当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了<ref name="asa717">『朝日新聞』1937年7月17日付夕刊 1面</ref>}}。
 
7月11日、[[支那駐屯軍]]と中国第二十九軍([[河北省 (中華民国)|河北省]]を統治する[[冀察政務委員会]]の常備軍)の間で停戦を合意する[[松井太久郎|松井]]・[[秦徳純]]協定が結ばれ、中国側は発砲責任者の処分、盧溝橋からの部隊退去、排日団体を取り締まる内容を約束した<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。こうして事態収拾への目処が付けられた事から日本政府は中国派兵を見合わせたが、司令官を[[香月清司]]中将に交代した支那駐屯軍の増強案の方は実施され、[[関東軍]]と[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]から複数個の師団が北京現地に編入された。[[近衛文麿|近衛内閣]]は北支派兵に関する政府声明の中で7日からの武力衝突を「[[北支事変]]」と名付けると、その原因は中国側の軍事威嚇にあるものとし、これに対抗する為の自衛権行使を北京増派の理由とした<ref name="usu65to72"/>。同時に近衛内閣は紛争の現地解決と戦線の不拡大方針も閣議決定した<ref>昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」</ref>。中華民国側では同11日から廬山国防会議が開かれ共産党から[[周恩来]]が参席し、蒋介石との間で対日開戦に向けた調整を始めた<ref name="ookubo">大久保泰『中国共産党史』 {{Full citation needed|title=巻次およびページ番号不記載|date=2019年6月27日}}</ref>。
 
7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人が死亡する[[大紅門事件]]が発生した。続く14日にも日本人騎兵が殺害された<ref name="shunin">[https://www.dpj.or.jp/download/21606.pdf 日中戦争の展開塘沽停戦協定からトラウトマン工作まで] [[岩谷將]][[防衛研究所]]主任研究官</ref>。13日と15日に[[毛沢東]]と[[朱徳]]が[[国共合作]]による即時開戦を国民党に訴えた。廬山の蒋介石は17日に最後の関頭演説を行い、中華民国は未だ脆弱で戦争を求めてはならないが止むをえない場合は徹底抗戦すると表明した<ref name="usu65to72"/>。7月19日、第29軍軍長の[[宋哲元]]上将は[[張自忠]]中将を代表にして日本側と和平交渉し、松井・秦徳純協定の履行を改めて約束したが、盧溝橋事件は現地レベルで解決されるものではないと通告した<ref name="kawakami136to149"/>。その頃、10日に動員された中国軍30個師団が河北省南部の[[保定市|保定]]と[[石家荘市|石家荘]]に着陣していた。7月20日、盧溝橋にいた日本部隊が再び攻撃され互いに砲弾を交わした<ref name="kawakami136to149"/>。7月21日、南京国防会議で蒋介石は対日開戦方針を採択したが<ref name="kawakami136to149"/>国民党内には慎重な声も多く、渦中の北京では22日にも排日出版物及び団体の取り締りが行なわれていた<ref name="usu65to72" />。23日に共産党が再び即時開戦を迫り、国民党軍事委員会は河北省の全部隊に対日戦争突入態勢を指示した<ref name="kawakami136to149"/>。
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*12月14日、日本は、北京を首府とし[[河北省 (中華民国)|河北省]]と[[山西省 (中華民国)|山西省]]を管理する傀儡政権の[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]を設立した。[[冀東防共自治政府]]もこれに編入された。
*12月23日、[[北支那方面軍]]隷下の[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]が[[山東省 (中華民国)|山東省]]に侵攻し、27日に[[済南市|済南]]を攻略した。
*12月24日、中支那方面軍の派遣部隊が[[杭州]]を攻略。日本軍は[[浙江省 (中華民国)|浙江省]]を占領した。
*1938年1月10日、日本海軍[[第四艦隊 (日本海軍)|第4艦隊]]が山東省の[[青島市|青島]]を攻略した<ref name="usu97to101">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p97-101</ref>。
*1月11日、[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]が[[済寧]]を攻略。日本軍は[[山東省 (中華民国)|山東省]]を占領し[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]の管理下とした。
*2月7日、中ソ航空協定が締結され、ソ連は中国に3000万米ドルを借款供与した<ref name="usu90to92" />。
 
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1938年4月2日、[[山東省 (中華民国)|山東省]]を制圧した[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]の一支隊が同省南西端へも進出し[[台児荘区|台児荘]]付近で中国軍と交戦したが、7日までに撤退した([[台児荘の戦い]])。これは抗日戦争初の大勝利と喧伝されて中国軍民を鼓舞した<ref name="isikawa188">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p188</ref>。[[台児荘区|台児荘]]の南には[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[安徽省 (中華民国)|安徽]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]の四省境が接する戦略の要衝・[[徐州市|徐州]]があった。中国軍の大兵力が[[徐州市|徐州]]に集結していると判断した大本営は<ref name="isikawa188" />一挙殲滅の好機と捉えて、4月7日に[[北支那方面軍]]と[[中支那派遣軍]]の両軍に徐州攻略の共同作戦を下令した<ref name="usu97to101" />。[[徐州市|徐州]]周辺にひしめく中国軍[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]、[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]の総勢60万人に向かって、山東省方面と南京方面からそれぞれ10万人の日本軍部隊が進軍し、5月5日から作戦が発動されて[[徐州会戦]]が始まった。日中合わせて80万人の激戦が繰り広げられる中で、16日に[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]司令長官[[李宗仁]]は早くも抗戦を諦めて徐州放棄を決断した<ref name="usu97to101"/>。日本軍は当初の目的である包囲殲滅には失敗したが中国側の後退に応じて突出し、19日に徐州を占領した。25日、北支軍の[[寺内寿一]]大将と中支軍の[[畑俊六|畑駿六]]大将が揃って徐州に入城し、取り逃がした第5・第1戦区軍の追撃態勢に移った<ref name="kojima347">児島、347頁。</ref><ref name="masui175-176">益井、175-176頁。</ref>。
 
* 5月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[福建省 (中華民国)|福建省]]の[[廈門市|廈門]]を占領攻略した。
* 5月26日 - 内閣改造が行なわれ対中強硬派の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、[[東条英機]]が陸軍次官となった<ref name="usu97to101"/>。一方で和平派の[[宇垣一成]]外務大臣は日中講和を断念せず 、香港の中村領事と[[孔祥熙]]の秘書喬輔三の間での水面下交渉を9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。
 
6月6日、 中国軍を西へ追撃する[[中支那派遣軍]]と[[北支那方面軍]]はそのまま[[河南省 (中華民国)|河南省]]に侵入し[[開封市|開封]]と[[鄭州市|鄭州]]を占領した。[[鄭州市|鄭州]]は各都市への中継点となる交通の最要地であり、ここの確保は[[武漢市|武漢]]や[[西安市|西安]]への迅速な侵攻を可能にした。徐州会戦の敗色でこの事態を予測していた中国軍は、5月下旬から鄭州一帯を水没させて日本軍の行動を抑止する為の黄河決壊準備を進めていた。6月9日に堤防が爆破され黄河から溢れ出した濁流は、[[河南省 (中華民国)|河南省]]の広範囲だけでなく[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]北部と[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]北西部をも呑みこみ、総計3000平方kmの土地を押し流して数十万人の住民犠牲者を出した([[黄河決壊事件]])<ref name="isikawa188" />。この未曾有の環境破壊により黄河下流域ではその後10年に渡って河川環境変化に伴う水害、[[蝗害]]、凶作、飢饉に悩まされる事になったが、それと引き換えにした成果は日本軍に[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]軍の追撃を断念させたのと武漢侵攻を二ヶ月程遅らせたに過ぎなかった。
 
6月15日、[[御前会議]]の中で中国軍の最要地[[武漢市|武漢]]と貿易の要港[[広州市|広州]]の攻略が決定された<ref name="usu97to101" />。この両都市は[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)の拠点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う[[中支那派遣軍]]が大幅に増強された<ref name="usu97to101" />。7月29日から[[満州国]]南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した([[張鼓峰事件]])。8月22日、[[武漢作戦]]が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]に侵攻した<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。湖北省一帯には蒋介石が指導する[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]と[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]の総勢110万の戦力が展開されており、こうして火蓋が切られた[[武漢会戦]]は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで攻防が続いた。同時期に{{仮リンク|広州作戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=}}も開始され、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]と[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が陸海共同して10月21日に[[広州市|広州]]を占領した<ref name="usu102to110" />。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮([[武昌区|武昌]]、[[漢口]]、[[漢陽区|漢陽]])を占領して武漢作戦を完遂し<ref name="usu102to110" />同時に[[援蒋ルート]]も遮断した。蒋介石は首都重慶に逃れた<ref name="usu124to135" />。
 
11月3日、武漢と広州の占領で蒋介石の戦意を挫けるという楽観的見通しを立てていた[[近衛文麿|近衛首相]]は[[第二次近衛声明]]を発表し、[[重慶市|重慶]]の[[国民政府]]に[[東亜新秩序]]への参加を呼びかけて実質的な停戦降服を促した。国民政府内では日中講和を唱える[[汪兆銘]]と蒋介石の路線対立が顕著となった。12日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]](武漢)の次の侵攻先と見なされた[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]で再び[[清野作戦]]が実行され、省都[[長沙市|長沙]]は中国軍の手による大火災に包まれて消滅した([[長沙大火]])。また中国側はイギリスの協力で11月中に英領[[ビルマ]]から[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]-[[四川省 (中華民国)|四川省]]-重慶へと繋がる新たな[[援蒋ルート]]を確立していた。首都重慶は山岳地帯に囲まれた天然の要害であり、日本軍の圧倒的戦力を以ってしても攻略は困難であったので、武漢占領が作戦の頂点であると同時に限界となった。20日、日中講和に向けた事前密約の日華協議記録が成立し日本側から[[影佐禎昭]]と[[今井武夫]]中国側から[[高宗武]]と[[梅思平]]の間で調印された。その内容には日華防共協定、満州国承認、日本軍の二年以内撤退などが盛り込まれていた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。
 
12月6日、新たに決定された対支処理方策の中で、日本軍はこれ以上の占領地拡大を望まず現状地域の安定確保に努め、抗日拠点の掃討戦のみを行なう旨が確認された<ref name="usu102to110" />。16日、中国大陸に広がった占領地運営の為の国家機関[[興亜院]]が設立された<ref name="usu102to110" />。18日、蒋介石と対立する[[汪兆銘]]が重慶を脱出し[[昆明市|昆明]]から仏領[[ハノイ]]に向かった<ref name="usu111to117" />。22日、近衛首相が第三次近衛声明の中で[[近衛三原則]]を発表した。それは日華協議記録の内容をなぞっていたが、肝心の日本軍が二年以内に撤退する条項が削除されており、梯子を外される形となった汪兆銘は失望した。蒋介石は近衛声明を一蹴した上で、汪兆銘のハノイ行きは療養目的であったと26日に発表し<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>彼の路線修正と帰参を暗に促した。また28日にも[[東亜新秩序]]は中国の奴隷化を企図したものだと日本を非難しアメリカもそれに同調した<ref name="usu102to110" />。しかし汪兆銘は国民党内に向けた29日の通電で「和平反共建国」を唱えて日中講和の必要性を力説し、30日の香港『南華日報』紙上でも近衛声明を受け入れた講和交渉に入るべきと論説したので<ref name="usu119to123" />、年が明けた1939年1月1日に中国国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。戦争収拾に失敗し中国政策も手詰まりとなった[[近衛文麿]]は1月4日に内閣総辞職し、[[平沼内閣]]に交代した<ref name="usu102to110" />。
 
=== 戦争の泥沼化 ===
=== 重慶爆撃と汪兆銘政権樹立 ===
[[ファイル:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumbnail|1940年の日本軍占領地域|代替文=]]1939年1月時点の日本軍の勢力圏は部分的掌握も含めると、[[察哈爾省|チャハル]]・[[綏遠省|綏遠]]・[[河北省 (中華民国)|河北]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[浙江省 (中華民国)|浙江]]・[[福建省 (中華民国)|福建]]・[[広東省 (中華民国)|広東]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]まで拡大していた。しかし、攻略困難な天然の要害である首都[[重慶市|重慶]]に立て篭もった蒋介石はなおも抗戦を断念しなかった為に、日本政府は戦争解決の糸口を見失ってこれ以上の作戦目的が見出せない手詰まり状態に置かれた。こうして日中戦争は泥沼化し<ref name="usu111to117" />、8月に首相となる[[阿部信行]]大将は「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と講演した<ref name="usu111to117" />。今後の計画としては、同月から[[重慶爆撃|重慶への爆撃]]を繰り返して<ref name="usu124to135" />国民党の戦意を削ぎ、また[[援蒋ルート]]を逐一遮断して中国軍を干上がらせる事が決められた。
[[ファイル:Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking,_China.jpg|thumb|防空壕付近で<!--4,000人が-->圧死または窒息死した市民(1941年6月5日の重慶爆撃)|代替文=]]
 
1939年の作戦としては1月からの[[重慶爆撃]]<ref name="usu124to135" />、[[2月10日]]の[[海南島]]上陸、[[3月]]の[[海州区 (連雲港市)|海州]]など[[江蘇省]]の要所占領、[[3月27日]]の[[南昌]]攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった<ref name="usu111to117" />。[[阿部信行]]大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。3月21日、汪兆銘の暗殺未遂事件が発生し曽仲鳴が代わりに殺害された<ref name="usu119to123" />。
* 2月10日、日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[海南島]]を攻略した。
*3月21日、仏領ハノイで汪兆銘の暗殺未遂事件が発生し曽仲鳴が身代わりとなった<ref name="usu119to123" />。
*3月27日、[[中支那派遣軍]]隷下の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が[[江西省 (中華民国)|江西省]]の攻略を目指す南昌作戦を開始した。
*5月3日 - 4日[[重慶爆撃]]によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた<ref name="usu124to135" />。
 
* [[45]]初頭 - 中国日本軍、南支で春季反撃[[襄東作戦]]
* [[5月7日]] - 板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた<ref name="usu111to117"/>。
*5月3日 - 4日の[[重慶爆撃]]によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた<ref name="usu124to135" />。
* [[5月11日]] - [[ノモンハン事件]]勃発(日ソ武力衝突)。
* [[6月13日]] - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。
 
[[6月14日]]に日本軍は天津のイギリス[[租界]]を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった<ref name="usu111to117"/>。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした<ref name="usu111to117"/>。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた<ref name="usu111to117"/>。
* [[56]]初頭21日 - 日本軍、[[襄東作戦汕頭市|汕頭]]占領
* [[5月7日]] - 板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた<ref name="usu111to117"/>。
* [[5月11日]] - [[ノモンハン事件]]勃発(日ソ武力衝突)。
* [[6月13日]] - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。
[[6月14日]]に日本軍は天津のイギリス[[租界]]を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった<ref name="usu111to117"/>。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした<ref name="usu111to117"/>。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた<ref name="usu111to117"/>。
* [[6月21日]] - 日本軍、[[汕頭市|汕頭]]占領。
 
イギリスが日本に一歩後退したのに対してアメリカ合衆国は[[7月26日]]、[[日米通商航海条約]]の廃棄を突然、日本に通告し、日本側は衝撃をうけた<ref name="usu111to117"/>。11月にはグルー駐日アメリカ大使との会談がはじまるが、12月22日、アメリカは中国で日本軍が為替、通貨、貿易など全面的な制限を行っている以上、協定の締結は不可能として拒絶した<ref name="usu111to117"/>。
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1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった<ref name="usu111to117"/>。1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた<ref name="usu119to123"/>。これによって蒋介石の支持層が拡大した<ref name="usu119to123"/>。
 
* [[1月]]下旬 - 日本軍、[[賓陽作戦]]。
* [[2月2日]] - 日本、[[衆議院]]で[[斎藤隆夫]]議員が対中国政策を批判([[反軍演説]]。[[3月7日]]議員除名)。
* [[3月30日]] - 汪兆銘、南京で親日政府樹立([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]])<ref name="usu119to123"/>。
 
[[ファイル:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumbnail|1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)]]1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117" />。[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135" />。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135" />。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135" />。
=== 戦争の泥沼化 ===
[[ファイル:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumbnail|1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)]]1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117" />。[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135" />。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135" />。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135" />。
 
* 1940年[[7月11日]]、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって<ref name="usu119to123" />倒壊し、7月21日に[[第二次近衛内閣]]が成立する<ref name="usu111to117" />。