削除された内容 追加された内容
144行目:
6月6日、 中国軍を西へ追撃する[[中支那派遣軍]]と[[北支那方面軍]]はそのまま[[河南省 (中華民国)|河南省]]に侵入し[[開封市|開封]]と[[鄭州市|鄭州]]を占領した。[[鄭州市|鄭州]]は各都市への中継点となる交通の最要地であり、ここの確保は[[武漢市|武漢]]や[[西安市|西安]]への迅速な侵攻を可能にした。徐州会戦の敗色でこの事態を予測していた中国軍は、5月下旬から鄭州一帯を水没させて日本軍の行動を抑止する為の黄河決壊準備を進めていた。6月9日に堤防が爆破され黄河から溢れ出した濁流は、[[河南省 (中華民国)|河南省]]の広範囲だけでなく[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]北部と[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]北西部をも呑みこみ、総計3000平方kmの土地を押し流して数十万人の住民犠牲者を出した([[黄河決壊事件]])<ref name="isikawa188" />。この未曾有の環境破壊により黄河下流域ではその後10年に渡って河川環境変化に伴う水害、[[蝗害]]、凶作、飢饉に悩まされる事になったが、その引き換えの成果は日本軍に[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]軍の追撃を断念させたのと武漢侵攻を二ヶ月程遅らせたに過ぎなかった。
 
6月15日、[[御前会議]]の中で中国軍の最要地[[武漢市|武漢]]と貿易の要港[[広州市|広州]]の攻略が決定された<ref name="usu97to101" />。この両都市は[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)の拠点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う[[中支那派遣軍]]が大幅に増強された<ref name="usu97to101" />。7月29日から[[満州国]]南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した([[張鼓峰事件]])。8月22日、[[武漢作戦]]が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って通り道となる[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]を制した後に[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]侵攻した<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。湖北省一帯には蒋介石が指導する[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]と[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]の総勢110万の戦力が展開されており、いた。こうして火蓋が切られた[[武漢会戦]]は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで攻防が続いた。同時期に{{仮リンク|広州作戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=}}も開始され、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]と[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が陸海共同して10月21日に[[広州市|広州]]を占領した<ref name="usu102to110" />。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮([[武昌区|武昌]]、[[漢口]]、[[漢陽区|漢陽]])を占領して武漢作戦を完遂し<ref name="usu102to110" />同時に[[援蒋ルート]]も遮断した。蒋介石は首都重慶に逃れた<ref name="usu124to135" />。
 
11月3日、武漢と広州の占領で蒋介石の戦意を挫けるという楽観的見通しを立てていた[[近衛文麿|近衛首相]]は[[第二次近衛声明]]を発表し、[[重慶市|重慶]]の[[国民政府]]に[[東亜新秩序]]への参加を呼びかけて実質的な停戦降服を促した。国民政府内では日中講和を唱える[[汪兆銘]]と蒋介石の路線対立が顕著となった。12日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]](武漢)の次の侵攻先と見なされた[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]で再び[[清野作戦]]が実行され、省都[[長沙市|長沙]]は中国軍の手による大火災に包まれて消滅した([[長沙大火]])。また中国側はイギリスの協力で11月中に英領[[ビルマ]]から[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]-[[四川省 (中華民国)|四川省]]-重慶へと繋がる新たなビルマ[[援蒋ルート]]を確立していた。首都重慶は山岳地帯に囲まれた天然の要害であり、日本軍の圧倒的戦力を以ってしても攻略は困難であったので、武漢占領が作戦の頂点であると同時に限界となった。20日、日中講和に向けた事前密約の日華協議記録が成立し、その内容には日華防共協定、満州国承認、日本軍の二年以内撤退などが盛り込まれていた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。
151行目:
 
=== 戦争の泥沼化 ===
1939年1月時点の日本軍の勢力圏は部分占領も含めると、[[察哈爾省|チャハル]]・[[綏遠省|綏遠]]・[[河北省 (中華民国)|河北]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[安徽省 (中華民国)|安徽]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[浙江省 (中華民国)|浙江]]・[[福建省 (中華民国)|福建]]・[[広東省 (中華民国)|広東]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]まで拡大していた。しかし、攻略困難な天然の要害の[[重慶市|重慶]]に立て篭もった蒋介石はなおも抗戦を断念しなかった為に、戦争解決の糸口を見失った日本政府はここで手詰まりとなった。日中戦争は長期化の様相を呈して泥沼化した<ref name="usu111to117" />。残された手段は、占領地周辺の抗日拠点を逐次掃討しつつ、[[重慶爆撃]]を繰り返して国民党の戦意を削ぎ、[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)を遮断して中国軍の物資枯渇を目指す位だった。同時に水面下で国民党関係者と接触を図り再交渉の機会を掴む試みも行なわれていた。1939年の日本軍の主な活動内容は、武漢維持の為の[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]一帯の鎮圧戦、[[仏印|インドシナ]][[援蒋ルート]]遮断の為の[[広西省]]の攻略戦、南京方面を脅かすゲリラ戦の根拠地となった[[江西省 (中華民国)|江西省]]の掃討戦であった。
 
* 2月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[海南島]]を攻略した。
*3月21日 - 仏領ハノイで[[汪兆銘]]の暗殺未遂事件が発生した<ref name="usu119to123" />。首謀者は[[藍衣社]]または[[中華民国国防部軍事情報局|軍統]]局長の[[戴笠]]だった。
*3月27日 - [[中支那派遣軍]]隷下の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が南昌作戦を開始し、5月9日に[[江西省 (中華民国)|江西省]]の[[南昌市|南昌]]を攻略した。
*4月25日 - 日本側が汪兆銘をハノイから脱出させ、5月6日に上海に到着し間もなく本を訪問した。
*5月1日 - [[湖北省 (中華民国)|湖北省]]で中国軍が反撃に打って出た[[襄東作戦|襄東会戦]]が発生。20日に日本軍は中国軍を撃退した。
*5月3日 - [[重慶爆撃]]によって外国人を含む3991人の死者が出た<ref name="usu124to135" />。
*5月11日 - [[ノモンハン事件]]が発生し関東軍とソ連軍が武力衝突した。[[板垣征四郎|板垣陸相]]は陸軍参謀[[辻政信]]に起因する関東軍の独走を黙認した。
*6月 - 平沼内閣が汪兆銘を中心とする中国新政府樹立方針を採択し汪工作指導要綱を発表した。その中で前年11月30日の日支新関係調整方針日中間の条件とされた<ref name="usu119to123" />。
*6月13日 - ソ連が中国側に1億5000万米ドルを借款供与した。
*7月26日 - アメリカが[[日米通商航海条約]]を突然破棄し日本政府は衝撃を受けた<ref name="usu111to117" />。この件を巡って11月からグルー駐日大使との交渉が始まるが、12月22日にアメリカは日本軍が中国大陸で全面的な貿易制限を行っている以上協定継続は不可能とする最終回答を出した<ref name="usu111to117" />。
*8月23日 - [[独ソ不可侵条約]]が締結された。[[日独伊防共協定]]に従いドイツとの関係強化でソ連に対抗する方針取っ重視していた[[平沼騏一郎|平沼首相]]はこれに驚き「欧州の天地は複雑怪奇」の言葉と共に内閣総辞職した。代わりに[[阿部信行]]大将が組閣した。<ref name="usu111to117" />。
*9月1日 - [[欧州|ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発し、阿部内閣は不介入を声明した<ref name="usu111to117" />。
 
169行目:
* 9月15日 - [[ノモンハン事件]]の停戦協定が成立した。
 
1939年11月15日、[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]][[援蒋ルート]]の遮断を目的とする[[南寧作戦]]が開始されて[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]が[[広西省]]に侵攻し、24日に省都[[南寧]]を占領して輸送路を牽制した。欧州のドイツ軍優勢を受けた日本政府は30日に[[フランス領インドシナ|インドシナ]][[援蒋ルート]]の停止をフランス側に要求した。12月17日、[[広西省]][[桂林市|桂林]]の中国軍が[[南寧]]奪還を目指して進軍し、[[崑崙関の戦い|崑崙関]]で激戦が繰り広げられたが、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]下の[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]がこれを撃退した。それと並行して第21軍本隊は12月24日から[[翁英作戦]]を始めて[[広東省 (中華民国)|広東省]]北部に侵攻し、同地の中国軍を一掃して後顧の憂いを絶った。続けて1月28日から[[賓陽作戦]]が行なわれ、[[広西省]]に取って返した第21軍本隊は[[南寧]]を伺う周辺にいる中国軍を撃破駆逐した。また、12月から中国軍の[[冬季攻勢 (1939-1940年)|冬季大攻勢]]が作戦始動され、翌年2月までの間に[[綏遠省|綏遠]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北]]・[[江西省 (中華民国)|江西]]・[[広東省 (中華民国)|広東省]]といった各戦線で日本軍への急襲が断続的に行なわれた。最終的な損害は日本側の損害は2万5千、中国側は10万以上だった。
 
1939年6月から日本と協調する中国新政府樹立の意を固めた[[汪兆銘]]6月から中国大陸を回って各地方政府の要人たちと調整重ねており、意向を打診、また11月1日、からは上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対滞在して汪側は太原〜石家荘〜[[滄州市|滄州]]軍部関係者と建国後ライン以北に限定するよう日本軍駐留地域大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求ついて協議てい<ref name="usu119to123" />その結果、12月30日に日本政府との間で日華新関係調整要綱が成立を起草した<ref name="usu119to123" />。1940年1月、阿部内閣ら米しその譲歩的内閣変わっ憤激し<ref name="usu111to117" />。1月6日、汪兆銘の腹心[[高宗武]]らが、年が明けた1940年1月6日に上海を脱出し香港に駆け込み、そこで日中間講和条件取り決めを暴露して[[汪兆銘政権]]ただの日本の傀儡であると訴えた<ref name="usu119to123" />。これによって蒋介石1月14日、貿易省設置問題と[[価格等統制令]]で官僚と国民双方の支持層が拡を失った[[阿部内閣]]は倒れ、次は[[米内光政]]海軍将が組閣した<ref name="usu119to123usu111to117" />。3月30日、汪兆銘が南京で親日政府([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]]を樹立した<ref name="usu119to123" />。[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]と[[中華民国維新政府]]はこれに吸収合併され、中国大陸の日本勢力圏をそのまま版図とした
 
1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117" />。[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135" />。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135" />。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135" />。1940年7月11日、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって<ref name="usu119to123" />倒壊し、7月21日に[[第二次近衛内閣]]が成立する<ref name="usu111to117" />。7月18日、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖<ref name="usu124to135" />。