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=== 南京攻略 ===
{{Main|南京戦}}上海戦の惨敗は、蒋介石に[[国民革命軍]]が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は<ref>[[楊天石]]:《揭開民國史的真相》卷五,蔣介石真相之二,風雲時代,2009年,61頁</ref>開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数十万人規模の「会戦」が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。
 
1937年11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された[[中支那方面軍]]は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に<ref name="osugi289to2943">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で<ref name="usu90to923">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>ソ連義勇兵を緊急派遣した<ref name="usu90to924">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。15日、第10軍司令官[[柳川平助|柳川]]中将が独断で南京への追撃を始めた<ref name="une1">畝元正己「証言による南京戦史(1)」『偕行』昭和59年(1984年)4月号、偕行社、p27-31.</ref><ref name="nihonkyod">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが<ref name="usu124to135" />、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下し、その司令官に[[唐生智]]上将を就けた<ref name="nihonkyod3">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという[[空野清野作戦|清野作戦]]も実行に移した<ref name="une2">畝元正己「証言による南京戦史(2)」『偕行』昭和59年(1984年)5月号、偕行社、p10-14.</ref><ref>鈴木「南京大虐殺のまぼろし」p172-173</ref>。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した<ref name="kawakami152to171" />。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。
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* 5月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[福建省 (中華民国)|福建省]]の[[廈門市|廈門]]を攻略した。
* 5月26日 - 内閣改造が行なわれ対中強硬派の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、[[東条英機]]が陸軍次官となった<ref name="usu97to101"/>。一方で和平派の[[宇垣一成]]外務大臣は日中講和を断念せず 、香港領事と[[孔祥熙]]の秘書の間での水面下交渉を9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。
 
6月6日、 中国軍を西へ追撃する[[中支那派遣軍]]と[[北支那方面軍]]はそのまま[[河南省 (中華民国)|河南省]]に侵入し[[開封市|開封]]と[[鄭州市|鄭州]]を占領した。[[鄭州市|鄭州]]は各都市への中継点となる交通の最要地であり、ここの確保は[[武漢市|武漢]]や[[西安市|西安]]への迅速な侵攻を可能にした。徐州会戦の敗色でこの事態を予測していた中国軍は、5月下旬から鄭州一帯を水没させて日本軍の行動を抑止する為の黄河決壊準備を進めていた。6月9日に堤防が爆破され黄河から溢れ出した濁流は、[[河南省 (中華民国)|河南省]]の広範囲だけでなく[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]北部と[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]北西部をも呑みこみ、総計3000平方kmの土地を押し流して数十万人の住民犠牲者を出した([[黄河決壊事件]])<ref name="isikawa188" />。この未曾有の環境破壊により黄河下流域ではその後10年に渡って河川環境変化に伴う水害、[[蝗害]]、凶作、飢饉に悩まされる事になったが、それと引き換えの成果は日本軍に[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]軍の追撃を断念させたのと武漢侵攻を二ヶ月程遅らせたに過ぎなかった。
 
6月15日、[[御前会議]]の中で中国軍の最要地[[武漢市|武漢]]と貿易の要港[[広州市|広州]]の攻略が決定された<ref name="usu97to101" />。この両都市は[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)の中継点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う[[中支那派遣軍]]が大幅に増強された<ref name="usu97to101" />。7月29日から[[満州国]]南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した([[張鼓峰事件]])。8月22日、[[武漢作戦]]が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って通り道となる[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]を制した後に[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]へ侵攻した<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。湖北省一帯には蒋介石が指導する[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]と[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]の総勢110万の戦力が展開されていた。こうして火蓋が切られた[[武漢会戦]]は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで攻防が続いた。同時期に{{仮リンク|広州作戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=}}も開始され、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]と[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が陸海共同して10月21日に[[広州市|広州]]を占領し、隣接する[[香港]][[援蒋ルート]]を遮断した<ref name="usu102to110" />。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮([[武昌区|武昌]]、[[漢口]]、[[漢陽区|漢陽]])を占領して武漢作戦を完遂し<ref name="usu102to110" />同時に[[援蒋ルート]]も遮断した。蒋介石は首都重慶に逃れた<ref name="usu124to135" />。
 
11月3日、武漢と広州の占領で蒋介石の戦意を挫けるという楽観的見通しを立てていた[[近衛文麿|近衛首相]]は[[第二次近衛声明]]を発表し、[[重慶市|重慶]]の[[国民政府]]に[[東亜新秩序]]への参加を呼びかけて実質的な停戦降服を促した。国民政府内では日中講和を唱える[[汪兆銘]]と蒋介石の路線対立が顕著となった。12日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]](武漢)の次の侵攻先と見なされた[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]で再び[[清野作戦]]が実行され、省都[[長沙市|長沙]]は中国軍の手による大火災に包まれて消滅した([[長沙大火]])。また中国側はイギリスの協力で11月中に英領[[ビルマ]]から[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]-[[四川省 (中華民国)|四川省]]-重慶へと繋がる新たなビルマ[[援蒋ルート]]を確立していた。首都重慶は山岳地帯に囲まれた天然の要害であり、日本軍の圧倒的戦力を以ってしても攻略は困難であったので、武漢占領が作戦の頂点であると同時に限界となった。20日、日中講和に向けた事前密約の日華協議記録が[[影佐禎昭]]と[[今井武夫]]らの働きで成立し、その内容には日華防共協定、満州国承認、日本軍の二年以内撤退などが盛り込まれていた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。
 
12月6日、新たに決定された対支処理方策の中で、日本軍はこれ以上の占領地拡大を望まず現状地域の安定確保に努め、抗日拠点の掃討戦のみを行なう旨が確認された<ref name="usu102to110" />。16日、中国大陸に広がった占領地運営の為の国家機関[[興亜院]]が設立された<ref name="usu102to110" />。18日、蒋介石と対立する[[汪兆銘]]が重慶を脱出し[[昆明市|昆明]]から仏領[[ハノイ]]に向かった<ref name="usu111to117" />。22日、近衛首相が第三次近衛声明の中で[[近衛三原則]]を発表した。それは日華協議記録の内容をなぞっていたが、肝心の日本軍が二年以内に撤退する条項が削除されており、汪兆銘は面目を失った。蒋介石は近衛声明を一蹴した上で、汪兆銘のハノイ行きは療養目的であったと26日に発表し<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>彼の路線修正と帰参を暗に促した。また28日にも[[東亜新秩序]]は中国の奴隷化を企図したものだと日本を非難しアメリカもそれに同調した<ref name="usu102to110" />。しかし汪兆銘は国民党内に向けた29日の通電で「和平反共建国」を唱えて日中講和の必要性を力説し、30日の香港『南華日報』紙上でも近衛声明を受け入れた講和交渉に入るべきと論説したので<ref name="usu119to123" />、年が明けた1939年1月1日に中国国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。戦争収拾に失敗し中国政策も手詰まりとなった[[近衛文麿]]は1月4日に内閣総辞職し、[[平沼内閣]]に交代した<ref name="usu102to110" />。
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*5月11日 - [[ノモンハン事件]]が発生し関東軍とソ連軍が武力衝突した。[[板垣征四郎|板垣陸相]]は陸軍参謀[[辻政信]]に起因する関東軍の独走を黙認した。
*6月 - 平沼内閣が汪兆銘を中心とする中国新政府樹立方針を採択し汪工作指導要綱を発表した。その中で前年11月30日の日支新関係調整方針が日中間の講和条件とされた<ref name="usu119to123" />。
*7月26日 - アメリカ[[コーデル・ハル]]国務長官が[[日米通商航海条約]]を突然破棄を通告し日本政府は衝撃を受けた<ref name="usu111to117" />。この件再締結を巡って11月から[[ジョセフ・グルー|グルー]]駐日大使と交渉が始ま、12月22日にアメリカは日本軍が中国大陸で全面的な貿易制限を行っている以上協定継続は不可能とする最終回答を出した<ref name="usu111to117" />。同時に[[ABCD包囲網]]と呼ばれる貿易制限が段階的に始まった。
*8月23日 - [[独ソ不可侵条約]]が締結された。[[日独伊防共協定]]を重視していた[[平沼騏一郎|平沼首相]]はこれに驚き「欧州の天地は複雑怪奇」と内閣総辞職した。代わりに[[阿部信行]]陸軍大将が組閣した。<ref name="usu111to117" />。
*9月1日 - [[欧州|ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発し、阿部内閣は不介入を声明した<ref name="usu111to117" />。
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* 9月15日 - [[ノモンハン事件]]の停戦協定が成立した。
 
1939年11月15日、[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]][[援蒋ルート]]([[仏印]]-[[広西省]]-[[昆明市|昆明]]-重慶)の遮断を目的とする[[南寧作戦]]が開始されて[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]が[[広西省]]に侵攻し、24日に省都[[南寧]]を占領して輸送路を圧迫した。12月17日、[[広西省]][[桂林市|桂林]]の中国軍が[[南寧]]奪還を目指して進軍し、[[崑崙関の戦い|崑崙関]]で激戦が繰り広げられたが、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]下の[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]がこれを撃退した。それと並行して第21軍本隊は12月24日から[[翁英作戦]]を始めて[[広東省 (中華民国)|広東省]]北部に侵攻し、同地の中国軍を一掃して後顧の憂いを絶った。続けて1月28日から[[賓陽作戦]]が行なわれ、[[広西省]]に取って返した第21軍本隊は[[南寧]]周辺再攻勢を掛ける中国軍を駆逐した。また、12月から中国軍の[[冬季攻勢 (1939-1940年)|冬季大攻勢]]が作戦始動され、翌年2月までの間に[[綏遠省|綏遠]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北]]・[[江西省 (中華民国)|江西]]・[[広東省 (中華民国)|広東省]]といった幅広い戦線で日本軍への攻撃が断続的に行なわれた。最終的な損害は日本側2万5千、中国側は10万以上だった。
 
日本と協調する中国新政府樹立の意志を固めた[[汪兆銘]]は、6月から中国大陸を回って各地の要人たちと調整を重ね、また11月から上海に滞在して軍部関係者と建国後の日本軍駐留地域について協議していた。その結果、12月30日に日本政府との間で日華新関係調整要綱を起草した<ref name="usu119to123" />。しかしその譲歩的内容に憤激した[[高宗武]]らが、年が明けた1940年1月6日に上海を脱出して英領香港に駆け込み、そこで日中間の取り決め内容を暴露して[[汪兆銘政権]]はただの日本の傀儡であると訴えた<ref name="usu119to123" />。1月14日、貿易省設置問題と[[価格等統制令]]で官僚と国民双方の支持を失った[[阿部内閣]]は倒れ、次は[[米内光政]]海軍大将が組閣した<ref name="usu111to117" />。3月30日、汪兆銘が南京を首都とする[[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]]を樹立した<ref name="usu119to123" />。[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]と[[中華民国維新政府]]はこれに吸収合併され、中国大陸の日本軍勢力圏がそのまま版図となった。
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1940年5月1日、武漢を脅かしていた[[宜昌市|宜昌]]([[湖北省 (中華民国)|湖北省]]西部)を攻略する[[宜昌作戦]]が開始され[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が出撃した。18日、武漢から重慶と[[成都市|成都]]を集中爆撃する一〇一号作戦も実施され、これは10月26日まで続いた<ref name="usu124to135" />。6月12日に[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]は[[宜昌市|宜昌]]を攻略破壊し<ref name="usu124to135" />すぐ帰還する予定だったが、欧州で快進撃するドイツ軍の14日パリ占領を見た日本軍は強気になり、重慶にも近い[[宜昌市|宜昌]]を占領確保して蒋介石をより強く圧迫する事を決めた。6月19日、本国が降服間近の[[フランス領インドシナ|フランス領インドシナ政府]]は、日本が繰り返し要求していた[[援蒋ルート]]の閉鎖を承諾した。24日から29日にかけての重慶爆撃は特に苛烈を極めた <ref name="usu124to135" />。7月18日、ドイツ優勢を追い風にした日本政府の要求に応じてイギリスがビルマ援蒋ルートを閉鎖した<ref name="usu124to135" />。ドイツ軍の欧州席巻に勢いづいた陸軍は「バスに乗り遅れるな」とばかりに日独伊同盟に難色を示す[[米内光政|米内首相]]の倒閣を狙って[[畑俊六|畑陸相]]に辞職を促し代わりの陸相を立てなかったので、7月22日に[[米内内閣]]は総辞職に追い込まれた<ref name="usu119to123" />。[[米内光政|米内首相]]は後の[[大政翼賛会]]に繋がる[[新体制運動]]にも消極的だった。この双方に前向きな[[近衛文麿]]が再び組閣して[[第二次近衛内閣]]が発足した<ref name="usu111to117" />。その顔ぶれには[[松岡洋右]]外相、[[東條英機]]陸相がいた。26日、[[基本国策要綱]]でいわゆる[[八紘一宇]]が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。8月1日、[[松岡洋右|松岡外相]]は[[大東亜共栄圏]]確立に向けた外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
 
8月20日、[[八路軍]](共産軍)が[[百団大戦]]を開始し、無数のゲリラ遊撃部隊と遊撃ゲリラ部隊を駆使して[[山西省 (中華民国)|山西省]]と[[河北省 (中華民国)|河北省]]にある鉄道線と鉱山施設を一斉襲撃した<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。現地の日本軍は10~20km範囲に1個中隊(約150名)を置くという分散警備状態にあったので当初は不意を付かれて少なからぬ被害を出し、また多くの鉄道、鉱山、電信施設が破壊された。ただちに反攻作戦に出た日本軍は、あらかじめ調査していた共産勢力ゲリラの根拠地を虱潰しに叩いていき、この掃討戦は12月3日まで続いた。結果的に[[八路軍]]も大きな打撃を受け、また日本側に内部情報も把握された事で以後2年間の共産活動は縮小した。ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、共産支配地と特定された地区の者たちを一律「敵性住民」と見なし、彼らが二度とゲリラ蜂起しないように徹底根絶を図るという[[燼滅作戦]]を10月から実行に移した。中国側はこれを日本軍による[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200" />。毒ガスの使用もあったと言われ、住民の3割以上が失われた地区もあった<ref name="isikawa200" />。
 
9月14日、陸海首脳会議で[[松岡洋右|松岡外相]]は支那事変処理に残された手段は独伊との提携であると主張し陸海両相も同意した<ref name="usu124to135" />。9月から日本軍は[[ヴィシー政権]]との合意を得て[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]]北部に進駐した([[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]])。9月27日、松岡外相肝煎りの[[日独伊三国同盟]]が締結された<ref name="usu124to135" />。同時期に前年から[[今井武夫]]を中心に進められていた蒋介石夫人[[宋美齢]]の弟の[[宋子良]]を仲介とする日中和平工作([[今井武夫#桐工作|桐工作]])が主に[[東條英機|東條陸相]]の意向で中止された<ref name="usu124to135" />。9月30日、前年から段階的に輸出制限を設けていたアメリカが対日[[屑鉄]]輸出を全面禁止し<ref name="usu124to135" />、[[コーデル・ハル|ハル]]国務長官は国防上の理由だとして日本の抗議を一蹴した<ref name="usu124to135" />。11月30日、汪兆銘政権との間で[[日華基本条約]]を調印した日本政府は南京政府こそが正統政権であると宣言し、同時に発表された[[日満華共同宣言]]で満州国の正統性も強調した<ref name="usu124to135" />。即座に汪兆銘政権を否認したアメリカは重慶の[[国民政府]]に1億ドルを追加供与した。12月10日にイギリス1千万ポンドの借款供与を発表し<ref name="usu124to135" />、翌11日ソ連も1億元を国民政府に1億元を[[物々交換|バーター]]借款供与した。13日、蒋介石はアメリカに航空機提供の要請を出した。18日、イギリスは[[ビルマ]][[援蒋ルート]]を再開した。
 
* 1941年1月20日 - [[河南省 (中華民国)|河南省]]で[[予南作戦|豫南会戦]]が発生し、2月12日に日本軍が中国軍の反攻を撃退した。
*3月15日 - [[江西省 (中華民国)|江西省]]で[[錦江作戦|上高会戦]]が発生する。[[上高県|上高]]の攻略に向かった日本軍が撃退され4月2日に撤退し引き揚げた。
* 4月13日 - [[日ソ中立条約]]が調印された。ドイツの[[独連侵攻計画戦]]の予見がその背景にあった。蒋介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り続けるとしながらも<ref name="usu135to142">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p135-142</ref>ソ連方面[[援蒋ルート]]の輸送量は減少または一時停止した
 
== 大東亜戦争 ==
=== 日米交渉の決裂開戦前夜 ===
{{Main|日米交渉}}
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、[[日米交渉]]が開始された<ref name="usu135to142"/>。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した<ref name="usu135to142"/>。