「フィリップ2世 (フランス王)」の版間の差分

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=== 離婚問題 ===
[[1190年]]にイザベルが亡くなると、[[1193年]]に[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]][[ヴァルデマー1世 (デンマーク王)|ヴァルデマー1世]]の娘[[インゲボルグ (フランス王妃)|インゲボルグ]]と結婚したが、フィリップ2世は彼女が気に入らず、間もなく離婚を宣言し、[[1196年]]にバイエルン貴族のアンデクス伯兼メラーノ公[[ベルトルト4世 (メラーノ公)|ベルトルト4世]]の娘[[アニェス・ド・メラニー|アニェス]]と結婚した。しかし、インゲボルグは離婚を認めず、フィリップ2世の結婚を重婚として[[教皇|ローマ教皇]]に訴えた。ローマ教皇[[ケレスティヌス3世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス3世]]はこの訴えを認め、フィリップ2世とアニェスとの結婚を無効とした。フィリップ2世はこれに抵抗し、アニェスを妻とし続けたため、[[1198年]]に新教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]はフィリップ2世を破門し、フランスを[[聖務停止]]とした<ref name=roberts152>[[#ロバーツ|ロバーツ(2003)p.152]]</ref>。それにより国内で[[ミサ]]も、[[洗礼]]も、結婚も、葬儀も行われなくなっため、埋葬されない遺体が墓地に並べられ、不衛生になり、伝染病が流行した
 
[[1201年]]になるとフィリップ2世は、イングランド王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]との抗争においてローマ教皇の支持を必要としたため、教皇の要求に屈してアニェスと別れた。失意のアニェスは間も、少なく亡くなっている。その後もフィリップ2世はインゲボルグとの離婚を望み、彼女を遠ざけていたが、デンマーク王やローマ教皇の要求により[[1213年]]に呼び戻し、王妃を欺く目的で表面上アニェスして処遇し別れた。
 
しかし、アニェスは王に飽きられて捨てられたと思い込み、悲しみから病に罹る。失意の中、アニェスは間もなく3人目の子の難産により亡くなるが、フィリップ2世はその死因がインゲボルグにあるとし、インゲボルグをエタンプの城に幽閉した。
 
その後もフィリップ2世はインゲボルグとの離婚を望み、彼女を遠ざけていたが、デンマーク王やローマ教皇の要求により[[1213年]]に呼び戻し、王妃として処遇した。
 
フィリップ2世は教会の干渉に非常に不満で、[[サン=ドニ]]の年代記によると「(自分が)イスラム教徒だったら良かった。ローマ教皇のいない[[サラーフッディーン|サラディン]]がうらやましい」と述べたとされる。
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[[Category:1165年生]]
[[Category:1223年没]]
[[Category:カトリック教会に破門された人物]]