「笠森お仙」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2017年4月}}
[[Image:Brooklyn Museum - The artist and O-sen - Suzuki Harunobu.jpg|thumb|200px|鈴木春信「お仙茶屋」]]
 
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[[1768年]](明和5年)ごろ、市井の美人を題材に[[浮世絵|錦絵]]を手がけていた浮世絵師[[鈴木春信]]の[[美人画]]のモデルとなった<ref name="edotokyo"/>。その美しさから江戸中の評判となり、[[大田南畝]]が『半日閑話』で、「谷中笠森稲荷地内水茶屋女お仙美なりとて皆人見に行き」と記し、「向こう横丁のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで おせんの茶屋へ」と手毬唄に歌われ<ref name="ニッポニカ"/>、お仙を題材にした狂言や歌舞伎が作られるほど一世を風靡し<ref name="edotokyo"/><ref name="jinmei"/>、お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。また、「鍵屋」は美人画の他、手ぬぐいや絵草紙、すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売していた<ref name="edotokyo"/>。
 
[[1770年]](明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した<ref name="asahi"/>。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した<ref name="asahi"/>。お仙が姿を理由について実際幕府[[旗本]][[御庭番]]で笠森稲荷の地主でもある[[倉地満済|倉地政之助]]の許に嫁いだためで、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという<ref name="asahi"/>。文政10年1月29日死去した<ref name="ニッポニカ"/><ref name="jinmei"/>。[[享年]]77。
 
現在、お仙を葬った墓は[[東京都]][[中野区]][[上高田]]の正見寺にあり、その墓石は1994年に中野区登録有形文化財に登録されている<ref>「笠森お仙の墓所」中野区教育委員会。</ref><ref>「資料編 6.中野区登録文化財・指定文化財」『平成25年(2013年)版 中野区健康福祉部事業概要 』 東京都中野区。p184。</ref>。