「上信電鉄」の版間の差分
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* [[1895年]]([[明治]]28年)[[12月27日]] '''上野鉄道'''<ref>[{{NDLDC|780113/298}} 『日本全国諸会社役員録. 明治31年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>設立
* [[1897年]](明治30年)[[5月10日]] 高崎 - 福島(現:上州福島)間が開業
* 1897年(明治30年)[[7月
* 1897年(明治30年)[[9月
* [[1921年]]([[大正]]10年)[[8月25日]] '''上信電気鉄道'''に改称(改称届出は[[9月7日]]<ref>[{{NDLDC|974244/412}} 『鉄道省鉄道統計資料. 大正10年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)
* [[1964年]]([[昭和]]39年)[[5月11日]] '''上信電鉄'''に改称
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== 車両 ==
[[1924年]]の[[鉄道の電化|電化]]当初は、その工事に使用した電気部品の多くを[[ドイツ]]の[[シーメンス]]社から輸入したことから、当時日本国内ではあまり他に例がない<ref group="注釈">大正 - 昭和初期にかけては輸入の電気機関車が多くみられるが、そのほとんどがアメリカ・イギリス製であり、ドイツやスイスといったその他の工業先進国からの輸入は極少数にとどまった。</ref>ドイツ製の[[電気機関車]]、また電装品にドイツ製の部品を多用した[[電車]]が在籍した。[[戦後]]しばらくは
車両の形態面では、6000形以前の自社発注車は、かつて[[閉塞 (鉄道)|タブレット交換]]を行っていた名残で運転席が進行方向右側にあるのが特徴である<ref group="注釈">1973年まで上信線では保安システムにタブレット閉塞式を採用しており、かつ同線における交換可能駅はすべて島式ホームであることから在来車両はそれらの駅でホームに接する右側に運転席を配置してタブレット交換の利便性を図っていた。この特徴はタブレットの廃止以降に製造された自社発注車両にも引き継がれた。</ref>。他に特徴的な装備として、[[ワンマン運転|ワンマン]]化以前に導入した車両については新造・中古を問わず、客室内に[[車掌スイッチ]]を設けていたことがあげられる。また、[[動力車|電動車]](制御電動車)を表す記号は、単独でも走行が可能な車両の形式を「デハ」、走行に必要な機器を2両以上に分散して搭載するユニットを構成する車両の形式を「モハ」として2つを併用する<ref>鉄道ファン No244 p93</ref><ref group="注釈">他に電動客車に複数の記号を併用する私鉄は[[長野電鉄]](制御電動車はデハ、中間電動車はモハ)や[[富山地方鉄道]](鉄道線の電動車はモハ、軌道線の電動車はデ)、過去に区別していた会社では[[京福電気鉄道]](線区による区別として、嵐山:モボ、叡山・鞍馬:デナ・デオ、福井:ホデハ→モハ)などが存在する。</ref>。なお、系列の呼称は編成内に2つ以上の形式が含まれる車両であっても「形」を用いる。
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** 1924 - 1925年の電化初期に導入した16m級木造電車群。車体は日本車輌製、電装品には戦前の日本では数少ないドイツのシーメンス社製のものを使用していた。1953年 - 1960年にかけて後述のデハ20形、クハ20形、デハニ30形、クハニ10形の各形式に順次更新され形式消滅した。
* サハ10形
** [[太平洋戦争]]の進行に伴い[[疎開]]や兵員輸送によ
* [[上信電気鉄道デハ10形電車|デハ10形・クハ10形]]
** デハ10形は東武鉄道、国鉄から譲り受けた木造電車、およびそれらを鋼体化した車両。クハ10形も元国鉄の木造車だが鋼体化は行われずにしばらく木造車体のまま使用され、1957年に鋼体化と同時に後述のクハニ10形に編入され形式消滅した。デハ10形は1981年に全廃。
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* [[国鉄ト24000形貨車|トム50形]]
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''' 蒸気機関車 '''
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