削除された内容 追加された内容
North land (会話 | 投稿記録)
rv/v
タグ: 改良版モバイル編集
タグ: ビジュアルエディター 改良版モバイル編集
97行目:
*9月13日、中国政府が日本軍の行為を[[国際連盟]]に提訴した。
*9月14日、北支那方面軍が河北省[[保定市|保定]]を攻略。
*9月15日、日本海軍航空隊が[[州市|広州]]を攻撃し<ref name="hioki" />{{要出典範囲|date=2015-06-22|22日までに現地の中国空軍を壊滅させた。}}<ref group="注釈">『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。ここでも[[漢奸狩り]]が実施され、赤灯と緑灯で空爆を助けたという容疑で100名以上が処刑された<ref> ''[[タイムズ|The Times]]''誌 [[9月27日]] 付記事</ref> 。
*9月21日、国際連盟で日中紛争諮問委員会が開催された<ref name="hioki" />。
*9月27日、不拡大方針を唱え続けた[[石原莞爾]]が陸軍参謀を辞職し<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、166頁</ref>その後は強硬論一辺倒となった。
114行目:
 
=== 南京攻略 ===
{{Main|南京戦}}上海戦の惨敗は、蒋介石に[[国民革命軍]]が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は<ref>[[楊天石]]:《揭開民國史的真相》卷五,蔣介石真相之二,風雲時代,2009年,61頁</ref>開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数万人規模の会戦、数千人規模の戦闘が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。
 
1937年11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された[[中支那方面軍]]は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に<ref name="osugi289to2943">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で<ref name="usu90to923">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>ソ連義勇兵を緊急派遣した<ref name="usu90to924">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。15日、第10軍司令官[[柳川平助|柳川]]中将が独断で南京への追撃を始めた<ref name="une1">畝元正己「証言による南京戦史(1)」『偕行』昭和59年(1984年)4月号、偕行社、p27-31.</ref><ref name="nihonkyod">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが<ref name="usu124to135" />、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下し、その司令官に[[唐生智]]上将を就けた<ref name="nihonkyod3">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという[[空野清野作戦|清野作戦]]も実行に移した<ref name="une2">畝元正己「証言による南京戦史(2)」『偕行』昭和59年(1984年)5月号、偕行社、p10-14.</ref><ref>鈴木「南京大虐殺のまぼろし」p172-173</ref>。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した<ref name="kawakami152to171" />。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。
137行目:
 
=== 徐州会戦と武漢攻略 ===
1938年4月2日、[[山東省 (中華民国)|山東省]]を制圧した[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]の一支隊が同省南西端へも進出し[[台児荘区|台児荘]]付近で中国軍と交戦したが、7日までに撤退した。この[[台児荘の戦い]])。これは抗日戦争初の大勝利と喧伝されて中国軍民を鼓舞した<ref name="isikawa188">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p188</ref>。[[台児荘区|台児荘]]の南には[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[安徽省 (中華民国)|安徽]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]の四省境が接する戦略の要衝・[[徐州市|徐州]]があった。中国軍の大兵力が[[徐州市|徐州]]に集結していると判断した大本営は<ref name="isikawa188" />一挙殲滅の好機と捉えて、4月7日に[[北支那方面軍]]と[[中支那派遣軍]]の両軍に徐州攻略の共同作戦を下令した<ref name="usu97to101" />。[[徐州市|徐州]]周辺にひしめく中国軍[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]、[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]の総勢60万人に向かって、山東省方面と南京方面からそれぞれ10万人の日本軍部隊が進軍し、5月5日から作戦が発動されて[[徐州会戦]]が始まった。日中合わせて80万人の激戦が繰り広げられる中で、16日に[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]司令長官[[李宗仁]]は早くも抗戦を諦めて徐州放棄を決断した<ref name="usu97to101"/>。日本軍は当初の目的である包囲殲滅には失敗したが中国側の後退に応じて突出し、19日に徐州を占領した。25日、北支軍の[[寺内寿一]]大将と中支軍の[[畑俊六|畑駿六]]大将が揃って徐州に入城し、取り逃がした第5・第1戦区軍の追撃態勢に移った<ref name="kojima347">児島、347頁。</ref><ref name="masui175-176">益井、175-176頁。</ref>。
 
* 5月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[福建省 (中華民国)|福建省]]の[[廈門市|廈門]]を攻略した。
151行目:
 
=== 戦争の泥沼化 ===
1939年1月時点の日本軍の勢力圏は部分占領も含めると、[[察哈爾省|チャハル]]・[[綏遠省|綏遠]]・[[河北省 (中華民国)|河北]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[安徽省 (中華民国)|安徽]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[浙江省 (中華民国)|浙江]]・[[福建省 (中華民国)|福建]]・[[広東省 (中華民国)|広東]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]まで拡大していた。しかし、攻略困難な天然の要害の[[重慶市|重慶]]に立て篭もった蒋介石はなおも抗戦を断念しなかった為に、戦争解決の糸口を見失った日本政府はここで手詰まりとなった。日中戦争は長期化の様相を呈して泥沼化した<ref name="usu111to117" />。残された手段は、占領地周辺の抗日拠点を逐次掃討しつつ、[[重慶爆撃]]を繰り返して国民党の戦意を削ぎ、[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)を遮断して中国軍の物資枯渇を目指す位だった。同時に水面下で国民党関係者と接触を図り再交渉の機会を掴む試みも行なわれていた。1939年の日本軍の主な活動内容は、膨大な兵力を呑み込むようになった占領地警備を除くと、武漢維持の為の[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]一帯の鎮圧戦、[[仏印|インドシナ]][[援蒋ルート]]遮断の為の[[広西省]]の攻略戦、南京方面を脅かすゲリラ戦の根拠地となった[[江西省 (中華民国)|江西省]]の掃討戦であった。
 
* 2月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[海南島]]を攻略した。
158行目:
*4月25日 - 日本側が[[汪兆銘]]をハノイから脱出させ、5月6日に上海に到着し、間もなく日本を訪問した。
*5月1日 - [[湖北省 (中華民国)|湖北省]]で中国軍が反撃に打って出た[[襄東作戦|襄東会戦]]が発生。20日に日本軍は中国軍を撃退した。
*5月3日 - [[重慶爆撃]]によって外国人を含む3991人の死者が出た<ref name="usu124to135" />。
*5月11日 - [[ノモンハン事件]]が発生し関東軍とソ連軍が武力衝突した。[[板垣征四郎|板垣陸相]]は陸軍参謀[[辻政信]]に起因する関東軍の独走を黙認した。
*6月 - 平沼内閣が汪兆銘を中心とする中国新政府樹立方針を採択し汪工作指導要綱を発表した。その中で前年11月30日の日支新関係調整方針が日中間の講和条件とされた<ref name="usu119to123" />。
*7月26日 - [[コーデル・ハル]]国務長官が[[日米通商航海条約]]の破棄を通告し日本政府は衝撃を受けた<ref name="usu111to117" />。再締結を巡って11月から[[ジョセフ・グルー|グルー]]駐日大使と交渉するも、12月22日にアメリカは日本軍が中国大陸で貿易制限を行っている以上継続は不可能とする最終回答を出した<ref name="usu111to117" />。同時に[[ABCD包囲網]]と呼ばれる貿易対日輸出制限が段階的に始まった。
*8月23日 - [[独ソ不可侵条約]]が締結された。[[日独伊防共協定]]を重視していた[[平沼騏一郎|平沼首相]]はこれに驚き「欧州の天地は複雑怪奇」と内閣総辞職した。代わりに[[阿部信行]]陸軍大将が組閣した。<ref name="usu111to117" />。
*9月1日 - [[欧州|ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発し、阿部内閣は不介入を声明した<ref name="usu111to117" />。
169 ⟶ 168行目:
* 9月15日 - [[ノモンハン事件]]の停戦協定が成立した。
 
1939年11月15日、[[フランス領インドシナ|インドシナ]][[援蒋ルート]]([[仏印]]-[[広西省]]-[[昆明市|昆明]]-重慶)の遮断を目的とする[[南寧作戦]]が開始されて[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]が[[広西省]]に侵攻し、24日に省都[[南寧]]を占領して輸送路を圧迫した。12月17日、[[広西省]][[桂林市|桂林]]の中国[[抗日戦争第4戦区|第4戦区]]軍が[[南寧]]奪還を目指して進軍し、[[崑崙関の戦い|崑崙関]]で激戦が繰り広げられたが、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]下の[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]がこれを撃退した。それと並行して第21軍本隊は12月24日から[[翁英作戦]]を始めて[[広東省 (中華民国)|広東省]]北部に侵攻し、同地に在った[[抗日戦争第4戦区|第4戦区]]部隊を一掃して後顧の憂いを絶った。続けて翌1940年1月28日から[[賓陽作戦]]が行なわれ、[[広西省]]に取って返した第21軍本隊は[[南寧]]に再攻勢を仕掛ける[[抗日戦争第4戦区|第4戦区]]軍を2月13日までに駆逐した。その前後に[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]は再編制されを改組して[[南支那方面軍]]が発足し新編制された。また、1939年12月から中国軍の[[冬季攻勢 (1939-1940年)|冬季大攻勢]]が作戦始動され、翌1940年2月までの間に[[綏遠省|綏遠]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北]]・[[江西省 (中華民国)|江西]]・[[広東省 (中華民国)|広東省]]といった幅広い戦線で日本軍への攻撃が断続的に行なわれた。最終的な損害は日本側2万5千、中国側は10万以上だった。
 
日本と協調する中国新政府樹立の意志を固めた[[汪兆銘]]は、1939年6月から中国大陸を回って各地の要人たちと調整を重ね、また11月からは上海に滞在して軍部関係者と建国後の日本軍駐留地域について協議していた。その結果、12月30日に日本政府との間で日華新関係調整要綱を起草した<ref name="usu119to123" />。しかしその譲歩的内容に憤激した[[高宗武]]らが、年が明けた翌1940年1月6日に上海を脱出して英領香港に駆け込み、そこで日中間本との取り決め内容を暴露して[[汪兆銘政権]]はただの日本の傀儡であると訴えた<ref name="usu119to123" />。1月14日、貿易省設置問題と[[価格等統制令]]で官僚と国民双方の支持を失った[[阿部内閣]]は倒れ、次は[[米内光政]]海軍大将が組閣した<ref name="usu111to117" />。3月30日、汪兆銘が南京を首都とする[[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]]を樹立した<ref name="usu119to123" />。[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]と[[中華民国維新政府]]はこれに吸収合併され、中国大陸の日本軍勢力圏がそのまま版図となった。
 
1940年5月1日、武漢を脅かしていた[[宜昌市|宜昌]]([[湖北省 (中華民国)|湖北省]]西部)を攻略する[[宜昌作戦]]が開始され[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が出撃した。18日から武漢からを拠点にして重慶と[[成都市|成都]]に大空襲集中爆撃する行なう一〇一号作戦も実施され、これは10月26日まで続いた<ref name="usu124to135" />。6月12日に[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]は[[宜昌市|宜昌]]を攻略破壊し<ref name="usu124to135" />すぐ帰還する予定だったが、欧州で快進撃するドイツ軍の14日パリ占領を見た日本軍は強気になり、重慶にも近い[[宜昌市|宜昌]]を占領確保して蒋介石をより強く圧迫する事を決めた。それに伴い24日から29日にかけての重慶爆撃は特に苛烈を極めた <ref name="usu124to135" />。6月19日、本国が降服間近の[[フランス領インドシナ|フランス領インドシナ政府]]は、日本が繰り返し要求していた[[援蒋ルート]]の閉鎖を承諾した。
 
7月18日、ドイツ優勢を追い風にした日本政府の要求に応じてイギリスがビルマ援蒋ルートを閉鎖した<ref name="usu124to135" />。ドイツ軍の欧州席巻に勢いづいた陸軍は「バスに乗り遅れるな」とばかりに日独伊同盟に難色を示す[[米内光政|米内首相]]の倒閣を狙って[[畑俊六|畑陸相]]に辞職を促し代わりの陸相を立てなかったので、7月22日に[[米内内閣]]は総辞職に追い込まれた<ref name="usu119to123" />。[[米内光政|米内首相]]は後の[[大政翼賛会]]に繋がる[[新体制運動]]にも消極的だった。この双方に前向きな[[近衛文麿]]が再び組閣して[[第二次近衛内閣]]が発足した<ref name="usu111to117" />。その顔ぶれには[[松岡洋右]]外相、[[東條英機]]陸相がいた。26日、[[基本国策要綱]]でいわゆる[[八紘一宇]]が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。8月1日、[[松岡洋右|松岡外相]]は[[大東亜共栄圏]]確立に向けた外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
179 ⟶ 178行目:
8月20日、[[八路軍]](共産軍)が[[百団大戦]]を開始し、無数の遊撃部隊とゲリラ部隊を駆使して[[山西省 (中華民国)|山西省]]と[[河北省 (中華民国)|河北省]]にある鉄道線と鉱山施設を一斉襲撃した<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。現地の日本軍は10~20km範囲に1個中隊(約150名)を置くという分散警備状態にあったので当初は不意を付かれて少なからぬ被害を出し、また多くの鉄道、鉱山、電信施設が破壊された。ただちに反攻作戦に出た日本軍は、あらかじめ調査していた共産ゲリラの根拠地を虱潰しに叩いていき、この掃討戦は12月3日まで続いた。結果的に[[八路軍]]も大きな打撃を受け、また日本側に内部情報も把握された事で以後2年間の共産活動は縮小した。ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、共産支配地と特定された地区の者たちを一律「敵性住民」と見なし、彼らが二度とゲリラ蜂起しないように徹底根絶を図るという[[燼滅作戦]]を10月から実行に移した。中国側はこれを日本軍による[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200" />。毒ガスの使用もあったと言われ、住民の3割以上が失われた地区もあった<ref name="isikawa200" />。
 
9月14日、陸海首脳会議で[[松岡洋右|松岡外相]]は支那事変処理に残された手段は独伊との提携であると主張し陸海両相も同意した<ref name="usu124to135" />。9月から日本軍は[[ヴィシー政権]]との合意を得て[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]し、この地の[[援蒋ルート]]を完全に断った。9月27日、松岡外相肝煎りの[[日独伊三国同盟]]が締結された<ref name="usu124to135" />。同時期に前年から[[今井武夫]]を中心に進められていた蒋介石夫人[[宋美齢]]の弟の[[宋子良]]を仲介とする日中和平工作([[今井武夫#桐工作|桐工作]])が主に[[東條英機|東條陸相]]の意向で中止された<ref name="usu124to135" />。9月30日、前年から段階的に輸出制限をけていたアメリカが対日今度は[[屑鉄]]輸出を全面禁し<ref name="usu124to135" />、[[コーデル・ハル|ハル]]国務長官は国防上の理由だとして日本の抗議を一蹴した<ref name="usu124to135" />。11月30日、[[汪兆銘政権]]との間で[[日華基本条約]]を調印した日本政府は[[汪兆銘政権|南京国民政府]]こそが中国の正統政権であると宣言し、同時に発表された[[日満華共同宣言]]で[[満州国]]の正統性も強調した<ref name="usu124to135" />。即座に[[汪兆銘政権|南京国民政府]](汪兆銘)を否認したアメリカは重慶の[[国民政府]](蒋介石)に1億ドルを追加供与した。12月10日にイギリスが1千万ポンド<ref name="usu124to135" />、翌11日にソ連も1億元を国民政府蒋介石に借款供与した。13日、蒋介石はアメリカに航空機提供の要請を出した。18日、イギリスは[[ビルマ]][[援蒋ルート]]を再開した。
 
* 1941年1月20日 - [[河南省 (中華民国)|河南省]]で[[予南作戦|豫南会戦]]が発生し、2月12日に[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が中国[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]軍の反攻を撃退した。
*3月15日 - [[江西省 (中華民国)|江西省]]で[[錦江作戦|上高会戦]]が発生する。[[上高県|上高]]の攻略に向かった[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が中国[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]軍に撃退され、4月2日に引き揚げた。
* 4月13日 - [[日ソ中立条約]]が調印された。[[独ソ戦]]の予見がその背景にあった。蒋介石は衝撃を受け、ソ連は軍事援助はこれまで通り続けるとしながらも<ref name="usu135to142">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p135-142</ref>ソ連方面[[援蒋ルート]]の輸送量減少または一時6月に停止した。
 
== 大東亜戦争 ==
=== 日米開戦前夜 ===
{{Main|日米交渉}}
1941年4月14日、工作機械、航空機燃料、屑鉄などの輸出制限を解除させて日米通商関係の正常化を目指す対米交渉が[[野村吉三郎]]駐米大使を通して始められた<ref name="usu135to142" />。しかし予想に違えず当初から難航の様相を見せた。5月からアメリカの[[レンドリース法]]が発効され、その武器貸与の一部は中国にも支給された。6月22日に[[独ソ戦]]が始まると、[[北進論]]を唱えていた[[松岡洋右|松岡外相]]が対ソ参戦を強硬に主張するが、近衛首相など他の閣僚は東南アジアへの進出を目指す[[南進論]]に傾いていた。7月2日の御前会議は独ソ戦不介入を決定し、南方進出を図る方針が定められた<ref name="usu135to142" />。7月7日、満州の地で対ソ作戦予行の[[関東軍特種演習]]が行なわれ[[北進論]]健在が誇示されたが、すでに日本政府内は[[南進論]]に固まっているとの情報が[[尾崎秀実]]を通してソ連側に筒抜けになっていたので、ソ連の対独戦略に影響を及ぼす事はなかった。7月18日、暴走気味の松岡外相を抑えられなくなった近衛首相は彼を罷免する為だけに内閣総辞職を決行し、同日に[[第3次近衛内閣|第三次近衛内閣]]が発足した。
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、[[日米交渉]]が開始された<ref name="usu135to142"/>。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した<ref name="usu135to142"/>。
* 5月 - 米国、[[対中武器貸与法]]発動。
* 5月 - 日本軍、[[江北作戦]]。
*5月7日〜6月15日 - 北支那方面軍が[[中原会戦|中原会戦(百号作戦)]]を行なう。
*5月〜8月末 - 日本軍、再び重慶を大空襲([[一〇二号作戦]])。8月に[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]第三飛行団長は重慶爆撃の有効性に疑問を呈し、再検討を要請した<ref name="usu124to135" />。
* 6月 - [[シンガポール]]で英・蒋軍事会議。
[[6月22日]]、[[独ソ戦]]がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、[[7月2日]]の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した<ref name="usu135to142"/>。[[7月7日]] - [[関東軍特種演習]](関東軍、対ソ戦を準備するが[[8月]]に断念)。[[7月10日]]、アメリカ対案に対して外務省顧問[[斉藤良衛]]は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した<ref name="usu135to142"/>。
 
* 5月7日〜6月15日 - 北支那方面軍が[[中原会戦|中原会戦(百号作戦)]]を行なう。
* 7月28日、日本軍、[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]を実施、英米は日本資産を凍結した<ref name="usu135to142" />。
*5月〜8月 - 日本軍、再び重慶を大空襲([[一〇二号作戦]])。8月に[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]第三飛行団長は重慶爆撃の有効性に疑問を呈し再検討を要請した<ref name="usu124to135" />。
*8月1日 - 米国、対日輸出を大幅に制限。
*9月5日〜11月6日 - [[第一次長沙作戦]](加号作戦)
 
*10月 - [[マニラ]]で英米蘭中の軍事会談。
7月28日、日本軍が仏領インドシナ南部にも部隊を駐屯させる[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]を決行した。アメリカの反発は日本政府の予想をはるかに越え、即座にアメリカは在米日本資産の全凍結に踏み切り<ref name="usu135to142" />、8月1日には石油の対日輸出を全面禁止した。両国の緊張は臨界点に達し9月6日の[[御前会議]]で制定された[[帝国国策遂行要領]]では、外交手段を尽くしつつも対米開戦を視野に入れて10月を目途にした戦争準備を進めるものとされた。10月16日、[[ゾルゲ事件]]が発覚し[[尾崎秀実]]のスパイ行為が明らかになった事で、彼を側近にしていた近衛首相はその責任を問われる形で内閣総辞職した。尾崎は汪兆銘を失望させた二年以内撤兵の削除など戦争拡大を許した数々の局面に関わっていた。
* 10月16日、近衛内閣総辞職、18日、東条内閣成立<ref name="usu143to155">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p143-155</ref>。[[11月1日]]から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序を建設するための米英蘭戦争を決意するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという[[帝国国策遂行要領]]が採択された<ref name="usu143to155" />。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまでに日中提携が消えて、中国での通商無差別原則の無条件承認を認める譲歩をし、また和平成立後2年で撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった<ref name="usu143to155" />。乙案は、南方に限定したもので仏印南部の日本軍の北部移駐、在米資産の凍結復帰などが書かれ、11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官に提示された<ref name="usu143to155" />。
 
* 11月22日 - 米国務長官[[コーデル・ハル|ハル]]、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の[[胡適]]大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した<ref name="usu143to155" />。[[11月24日]]、ハルは英蘭濠中代表の説得を再度行ったが中国側は北部仏印の日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった<ref name="usu143to155" />。蒋介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、ラティモアは蒋介石がここまで怒るのははじめてだと米大統領に報告した<ref name="usu143to155" />。さらに蒋介石はスティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルももし中国が崩壊すれば英国も危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した<ref name="usu143to155" />。
10月18日、[[東條内閣]]が成立し、11月1日から最後の対米交渉に臨む政府内の調整および[[コーデル・ハル|ハル]]国務長官を相手にした駆け引きが始められた。5日に交渉の指針とする[[帝国国策遂行要領]]が御前会議で再制定され、日米通商関係正常化に向けた日本側の譲歩は、河北省と内蒙古以外から撤兵する甲案と中国全土から撤兵する乙案とされた。いずれも北部仏印進駐には拘っていた。これは[[フランス領インドシナ|仏印]]の[[援蒋ルート]]が再開すると蒋介石側が大幅に息を吹き返して日本撤兵後の汪兆銘政権が危うくなると予測されたからだった。7日に甲案が20日に乙案が提示された。22日、乙案に興味を覚えた[[コーデル・ハル|ハル]]国務長官はそれに沿った暫定案を中国側に見せたが、[[胡適]]駐米大使は猛反対し蒋介石も激怒した<ref name="usu143to155">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p143-155</ref>。蒋介石はアメリカの陸海軍両長官に親書を送り、英首相チャーチルも中国崩壊は英国危機に直結するとルーズベルト大統領に訴えた<ref name="usu143to155" />。11月26日、いわゆる[[ハル・ノート]]が日本側に手交された。その内容はこれまでの硬軟織り交ぜた交渉努力を一蹴する、中国全土および仏印からの完全撤兵と汪兆銘政権の否認であった。その対象に関東軍と満州国も含まれるのかは諸説分かれている。これを[[最後通牒]]と解した日本政府は対米開戦を決意した。
*11月26日 - 米国務長官ハルは暫定協定案を放棄し、[[ハル・ノート]]を作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを[[最後通牒]]と解し、対米開戦に傾く。
* 12月〜翌年1月 - [[第二次長沙作戦]]。
 
=== 太平洋戦争開幕 ===
210 ⟶ 202行目:
* 12月8日 - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、[[マレー半島]]上陸、及び[[真珠湾攻撃]]。広東第23軍、[[香港]]攻略開始([[香港の戦い]])。こうして[[太平洋戦争]]が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した<ref name="usu143to155"/>。[[12月9日]] - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告<ref name="usu143to155"/>。
* 12月12日 - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「[[大東亜戦争]]」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蒋介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた<ref name="usu143to155"/>。
* 12月〜翌年1月 - [[第二次長沙作戦]]。
* 12月25日 - 日本軍、香港占領。
* 12月31日、アメリカの要請で蒋介石は中国戦区連合軍総司令官に就任、蒋介石の希望で[[ジョセフ・スティルウェル]]が[[中国国民党]]軍参謀長に就任する<ref name="usu143to155"/>。