「信濃国」の版間の差分

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[[江戸時代]]は、途中廃絶も含めて[[松代藩]]等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、[[松本藩]]、[[上田藩]]、[[飯山藩]]、[[小諸藩]]、[[岩村田藩]]、[[奥殿藩|龍岡藩]]([[奥殿藩|田野口藩]])、[[諏訪藩|高島藩]]、[[高遠藩]]、[[信濃飯田藩|飯田藩]]、[[須坂藩]])。また木曽地方は全域が[[尾張国]][[名古屋藩]]領(山村代官所)であり、伊那郡内には[[美濃国]][[高須藩]](竹佐陣屋)及び[[陸奥国]][[白河藩]](市田陣屋)、高井郡内には[[越後国]][[椎谷藩]](六川陣屋)、佐久郡内には[[三河国]][[奥殿藩]](後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他[[善光寺]]、[[戸隠神社]]、[[諏訪大社]]等の[[寺社領]]、天領支配のための[[中野陣屋|中野]]・[[中之条陣屋|中之条]]・[[御影陣屋|御影]]・[[飯島陣屋|飯島]]・[[塩尻陣屋|塩尻]]の5つの[[代官所]]、[[伊那衆]]三家を含む[[旗本]][[知行|知行所]](維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。
 
[[正保]]元年(1644年)、幕府は[[正保国絵図]]の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には[[貞享]]3年(1686年)の松本藩[[貞享騒動]]や[[宝暦]]11年(1761年)の上田藩[[上田騒動|宝暦騒動]]など大規模な農民[[一揆]]が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの[[出稼ぎ]]労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「[[ムクドリ|椋鳥]]」と呼ばれ、「大飯喰らい」「でくのぼう」の象徴として江戸[[川柳]]や[[狂言]]に多く詠まれることとなった<ref>『江戸語辞典』東京堂出版 2014年 412ページ</ref>。[[天明]]年間の[[浅間山|浅間山大噴火]]や[[天明の大飢饉]]も農民の都市への逃散の一因を成した。[[文化 (元号)|文化]]13年(1816年)には天領代官所に信濃国悪党取締出役が設置され、天保年間からは天領代官が大名・旗本領に立ち入り、他国から流入する[[無宿者]]の取締りに従事する事例が増加した。[[弘化]]4年(1847年)には[[善光寺地震]]が発生し、広範囲に大規模な被害が及んだ。その一方で[[五郎兵衛用水]]や[[拾ヶ堰]]などの[[灌漑]]用水の開削によって、[[新田|新田開発]]が進み、信濃一国の石高は慶長3年(1598年)には約40万石であったものが、天保5年(1843年)には約75万石まで増加した。また[[寛文]]年間ころから農閑期の農民が担い手となり、[[中馬]]という新たな内陸交通手段発達したが、[[宿場町]]の[[駅伝制|伝馬制]]を圧迫し、軋轢を生じたため、[[明和]]元年(1764年)に幕府は裁許状を発し、条件を付けて公認した。
 
幕末になると、東海地方から南信濃に[[平田篤胤|平田]][[国学]]が移入され、俄かに[[勤皇]]思想が盛んになった。[[文久]]元年(1861年)の[[和宮親子内親王|和宮]]の中山道下向では松代藩、上田藩、高遠藩が乗輿警衛を、その他諸藩が沿道守衛を命じられた。[[元治]]元年(1864年)には[[天狗党の乱]]が関東から京へ向けて信濃国内を通行したが、実際に交戦したのは高島藩、松本藩のみで、それ以外の藩は天狗党に畏怖し通行を黙認した。同年、[[開国]]派の松代藩士[[佐久間象山]]は京都で[[尊王攘夷]]派に暗殺された。