「ウィリアム・シッペン (庶民院議員)」の版間の差分

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[[アザー・ウィンザー (第2代プリマス伯爵)|プリマス伯爵]]の後援を得て1707年から1713年まで{{仮リンク|ブランバー選挙区|en|Bramber (UK Parliament constituency)}}で[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に当選、1713年から1715年まで{{仮リンク|ソルタッシュ選挙区|en|Saltash}}で当選、1715年から死去まで{{仮リンク|ニュートン選挙区|en|Newton (UK Parliament constituency)}}で当選した<ref name="ODNB" />。
 
シッペンは庶民院で国王[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の演説を「グレートブリテンではなく、ドイツ中心で考えられている」と、ジョージ1世を「我が言語と憲法に疎い者」と批判した。その結果、庶民院はシッペンの演説が「陛下の人格と政府に対し、大きく不敬で、不公平な感想である」と議決、シッペンは1717年12月4日に[[ロンドン塔]]に送られた<ref name="ODNB" />。翌年3月、シッペンは「老僭王」[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート]]に手紙を書き、老僭王の願いが「最大の喜びと忠誠をもって」満たされると述べた。1721年中にはイングランドとスコットランドのジャコバイトの仲介役としてニューカッスルで{{仮リンク|ジョージ・ロックハート (政治家)|en|James Lockhart (politician)|label=ジョージ・ロックハート}}と面会して、通信手段について話し合った。しかし、1740年には彼が「恐怖し、国王(老僭王)の文通相手に自身の涙を植えつけた」ことを理由に、フランスが後援する蜂起に関する老僭王からイングランドのジャコバイトへの連絡から外された<ref name="ODNB" />。1741年2月に[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]の[[サミュエル・サンディーズ (初代サンディーズ男爵)|サミュエル・サンディーズ]]が[[ロバート・ウォルポール]]を不信任決議にかけたとき、シッペンは棄権して「ロビンも私も誠実な人間であり、彼はジョージ王を、私はジェームズ王を支持した。クラバットをつけた男たちはジョージ王かジェームズ王の下しか望まない」とコメントした。後に彼は「共和主義の原則でロビンを追い落とす」ことはしないと表明した<ref>Eveline Cruickshanks, ''Political Untouchables; The Tories and the '45'' (London: Duckworth, 1979), p. 26.</ref>。
 
== 脚注 ==