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== 生涯 ==
5代藩主[[溝口重元]]の次男として江戸にて誕生した。幼名は虎之助、のち久三郎。初め重貞(しげさだ)と称し、のち直治と改める(将軍世子[[徳川家重]]の「重」を憚ったため)。
 
[[享保]]元年([[1716年]])[[徳川吉宗]]に初[[御目見]]する。同3年[[11月21日 (旧暦)|11月21日]]([[1719年]][[1月11日]])、父・重元の死去により家督を継ぎ、翌享保4年([[1719年]])に家督の礼として重元の遺品である青江助次の太刀を将軍家に献上する。同年、従五位下信濃守に叙任する。
 
享保9年([[1724年]])、越後[[蒲原郡]]の[[天領|幕府領]]4万3000石を預けられ、同14年([[1729年]])にはさらに2万石を預けられた。同15年([[1730年]])には叔父[[逸見元長]]に年々[[蔵米]]1000石を与え、幕臣とすることを願って許された。
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享保17年(1732年)、江戸において26歳で死去した。法号は天真全用大機院(大機院殿前信州大守天真全用大居士とも)。江戸[[駒込]]の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]に葬る。
 
直治は[[播磨国]][[姫路藩]]主[[榊原政邦]]の娘と[[結納]]まで交わしていたが、婚儀を行う前に病に倒れ、縁談は解消された。嗣子はなく、一族の旗本・[[溝口直道]]の四男・亀之助([[溝口直温]])を急養子に迎えて家督を継がせた。直治の治世は財政窮乏が一つの頂点に達した時期であり、新発田藩では下級藩士の召し放ちや、藩士からの知行・俸禄の借り上げを行うのやむなきに至った。ことに国元において例年のように繰り返される水害は、藩財政に大きな打撃を与えた。このために[[加治川]]や[[阿賀野川]]の水系において大規模な[[治水]]工事が行われたのも、またこの時期の特徴であった。
 
== 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:みそくち なおはる}}
[[Category:溝口氏|なおはる]]
[[Category:新発田藩主|なおはる]]
[[Category:新発田溝口|なおはる]]
[[Category:1707年生]]
[[Category:1732年没]]