「ヴィルヘルム・カナリス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Srption (会話 | 投稿記録)
→‎生涯: 全然事実ではないのなら、いらないと思いました。
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
48行目:
[[ナチス時代]]、カナリスとハイドリヒは親交と緊張の二面的な関係を維持した。カナリス家とハイドリヒ家は[[ベルリン]]郊外の{{仮リンク|シュラハテン湖|label=シュラハテンゼー|de|Schlachtensee}}に家を並べて隣人として家族ぐるみの付き合いをした。両者は外見上は共に家庭音楽会を開き、また、ベルリンの[[ティーアガルテン]]で乗馬を楽しむ等友好的な関係を結んでいたが、個人的には嫌悪と不信があった。カナリスの価値観、ナチ政権に対する反感、犯罪的手法・[[テロリズム]]の拒否感は、ドイツの二つのスパイ機関のトップのあいだの溝を深めていった。ハイドリヒとカナリスの交渉は常に[[ヴァルター・シェレンベルク]]が「緩衝材」として必要になるほど緊張していたという(シェレンベルクが回顧録に書いたところによると、シェレンベルクが二人の交渉の場からいつの間にか立ち去ると、必ずハイドリヒかカナリスのどちらかが慌てて自分を捜しに来て連れ戻したという)。カナリスは日記に「ハイドリヒに心を開いて一緒に仕事をするのは、たぶん無理だろう。あいつは血も涙もない狂信者になってしまった…。」と書いている。それでも1942年のハイドリヒの葬儀ではカナリスは涙を見せている。
 
国防軍情報部長としてカナリスが携わった工作には、[[IRA]]の対英テロやフランコ将軍のクーデター、[[アラブ]]の民族主義者による[[パレスチナ]]、[[イラク]]、[[エジプト]]における反英運動の支援などがある。また[[1936年]]には、[[日本]]と対立する[[中華民国]]と友好関係にあった[[ドイツ陸軍 (国防軍)|陸軍]]主流派に逆らい、日独軍事協力を推進し、駐独日本大使[[大島浩]]と共に[[日独防共協定]]を成立に導いた。1939年8月末の[[ポーランド侵攻]]の口実作りのための[[グライヴィッツ事件]]の工作に、カナリスのアプヴェーアはうまく理由をつけて参加を拒否し、グライヴィッツ事件はSDのみで実行することとなった。1937年カナリスは大本営陸軍参謀本部から派遣された陸軍大佐大越兼二と対ソ戦争についてナチスに知られること無く秘密裏に研究を行った。その結果は対ソ戦は日独ともに国を滅ぼすというものであった。また、日本の米英との戦争は国を危うくするものと結論された。日独とも平和的手段国力を高め、諸国民の信望を集めるべきだ、というのが彼ら二人の結論であった。カナリスは日独とも平和の道以外に生きる道ないと信じており、ナチス党への不信をあらわにしていたのである。大越大佐は1938年転任を命じられ、日本に帰任した。
 
=== 処刑 ===