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はじめ叔父で家臣となった[[立花通堅]](兵部、第5代藩主・[[立花貞俶|貞俶]]の十男)の養子となっていたが、[[寛政]]5年([[1793年]])8月に兄で嫡子だった[[立花鑑一|鑑一]]が父に先立って[[江戸]]で死去し、もう一人の兄である[[立花通厚|通厚]]が嗣子になることを辞退したために嗣子に選ばれた。そして寛政9年(1797年)閏7月22日、父の隠居により藩主となる。藩主となると[[家老]]小野勘解由を信任し、小野が実権を握る。
 
これより先、家老で姉婿でもある[[立花寿とみ|立花寿賰]](内膳)と[[立花通栄|戸次通栄(織衛)]](後に立花氏を下賜)らが豪傑組を組織して藩政改革を行ったが、その厳罰主義と党派的画策に対して藩内で不満が表面化した。これを受けて小野は家老の立花内膳と戸次通栄(織衛)を解職し、さらに寺社奉行2名に蟄居、[[物頭]]戸次半ら11名に逼塞を命じている([[豪傑崩れ]])。しかしあまりにやりすぎたため、家中で反対意見も強く、同年末には早々と立花寿賰ら多くが復職した。
 
寛政11年([[1799年]])9月、亡兄・鑑一の遺児である[[立花鑑賢|鑑賢]]を養嗣子として迎えた。その後は[[藩札]]を発行するなどしている。また、[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])には戸次通栄に立花姓を許可する。
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== 偏諱を与えられた人物 ==
*[[立花寿とみ|立花'''寿'''賰]](姉婿、通称:内膳)
*[[立花寿俶|立花'''寿'''俶]](次男)