「樺山久言」の版間の差分

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[[文化]]2年([[1805年]])、[[島津斉宣]]の命により家老に就任。30歳の家老就任は当時としては若年での就任であり、異例のことであった。この抜擢には久言が属していた派閥「近思録」派の人材が緊急の財政改革において必要と思われていたからと考えられる。久言は、「近思録」派の首領であり下級藩士であった[[秩父季保]]を斉宣に推薦し、その後文化4年([[1807年]])~文化5年([[1808年]])初頭において薩摩藩の財政改革のリーダーとなった。しかし、その改革内容が島津重豪の不興を買う原因となり、文化5年5月8日に重豪に隠居を命じられ、私領のある藺牟田(現 [[鹿児島県]][[薩摩川内市]][[祁答院町]])に蟄居させられる。その後も重豪より親族に対する嫌がらせをたびたび受け、同年9月26日に自害に追い込まれた。
 
久言は私領では領民に慕われた領主であったらしく、死後、重豪の圧力で久言の墓が作られなかったため、領民が[[地蔵菩薩|地蔵]]を建てて久言を供養していたという。
 
==関連項目==