「アンリ・ド・バイエ=ラトゥール」の版間の差分

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バイエ=ラトゥールは[[1903年]]にIOCメンバーとなり、後に[[ベルギーオリンピック委員会]]の共同創設者に名を連ねた。[[アントウェルペン]](アントワープ)で開催された[[アントワープオリンピック|1920年夏季オリンピック]]の組織委員会にも加わっていたが、このオリンピックはわずか1年前の[[1919年]]に開催が決定されたものであった。このような短い準備期間に加え、ベルギーにはなおも[[第一次世界大戦]]の傷跡が残っていたものの、大会は成功に終わった。
 
[[1925年]]、近代オリンピック運動の提唱者であった[[ピエール・ド・クーベルタン|クーベルタン]]がIOC会長を辞職すると、バイエ=ラトゥールは新会長に選出された。1936年の[[ベルリンオリンピック]]の際は[[ユダヤ人]]排除を推し進める[[アドルフ・ヒトラー]]に対して開催地変更をちらつかせるなどヒトラーと対等に戦った人物でもある。[[航空事故]]心不全で死去する[[1942年]]までIOCを率い、後任には副会長だった[[ジークフリード・エドストレーム]]が就いた。
 
[[1936年]]3月には、[[1940年東京オリンピック|1940年のオリンピック東京招致]]を目指していた日本に招かれている。IOCはその年7月の総会で1940年の東京開催を決定したが、その後勃発した[[日中戦争]]の影響により日本国内からの返上・日本国外からの不参加の議論が起こり、1938年に日本は開催を返上した。これを受けて[[ヘルシンキ]]に開催地を変更するも、[[第二次世界大戦]]の勃発により[[ベルリンオリンピック (1916年)|1916年ベルリン大会]]以来の開催中止に追い込まれる。第一次大戦からの復興を掲げたアントウェルペン大会とは対照的に、戦争にオリンピック開催を阻まれる苦い経験を味わうことになった。